- 出演者
- 浜田雅功 ヒロド歩美 高橋尚子 上原浩治
ゲストは上原浩治。過去に浜田と共演歴あり。
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- 大阪府
オープニング映像。
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。生まれは1975年、大阪・寝屋川。何があるわけでもない普通の街。86年、6歳で野球チームに入る。幸福度40。父がコーチをやっていたこと、兄もやっていたことがきっかけ。父の著書によると、裕福ではなかったので洋服を兄弟で着回していた。88年、中学に野球部がなかったので陸上部に入部。種目はハードル、三段跳など。最高成績は大阪府大会5位。野球は地域の集まりで日曜だけやっていた。91年、東海大付属仰星高校に入学。監督ではなく先輩からの「ご指導」が厳しかった。1年生の時に一度だけ「辞めたい」と親に相談した。「ご指導」は野球とは一切関係ない事柄によるものだった。
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。91年、野球の強豪・東海大付属仰星高校に入学。きっかけは野球をやりたかったこと、家から近かったこと。中学には野球部がなかったので陸上部に入部。「いつか野球に活かせる」との思いもあったという。2年で外野手レギュラーとなり、3年では控え投手を兼務。当時のエースは後にメジャーでチームメイトになる建山義紀。上原は肩とコントロールが良く、先輩の打撃投手をよく務めていた。1年生の頃から投手を勧められていたが、練習がキツそうなのが嫌で断っていた。一時はレギュラーになるも新入生に押し出され、試合に出るため仕方なく投手に転身。エース建山の存在もあり出場機会は少なかった。甲子園には行けず。
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。高校時代のチームメイト建山義紀からのタレコミ。当時の上原は女子バレー部のマドンナにあこがれていたが、シャイで全く相手にされずモテなかった。94年に高校卒業。教師を目指し大学受験も失敗し浪人。幸福度は-90。野球ばかりで勉強をおろそかにしていたため。浪人時代は予備校に通い様々なアルバイトを経験。スーパーでは野菜売り場の陳列担当。常連客から「こうちゃん」と呼ばれていた。プロ入りは全く考えず、大学4年で終わりにしようと考えていた。浪人中は草野球に時々参加する程度。
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- 建山義紀
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。95年、浪人を経て大学合格。3年時には全日本に選ばれ、国際大会で当時151連勝中のキューバを撃破。幸福度70。上原は5回3分の1を1失点に抑えた。大学で突然活躍できるようになったきっかけは、浪人中にボディビルダー向けのジムに通っていたこと。 98年、巨人を逆指名しドラフト1位入団。幸福度90。この頃にメジャー球団からもオファーがあったが、当時のスカウトから「100%の自信がないなら来るな」と言われ諦めた。この時点でメジャーの夢を捨てた。背番号19は19歳で浪人したことに由来。プロ1年目の99年、史上3人目の投手4冠&沢村賞。幸福度95。当時の代名詞は「雑草魂」。
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。00年、ケガで9勝に終わるが初の日本一。幸福度は10。2ヶ月ほどチームを離れていた。02年、17勝で2度目の沢村賞。幸福度95。日米野球ではメジャー最強打者バリー・ボンズを相手に3三振。05年、MLB移籍を試みたが球団から認められず断念。幸福度はプラスマイナス0。ファンからのバッシングも大きかった。入団時の契約金を返すことも申し出たが認められず。交渉は3~4年続けられた。06年、第1回WBCで金メダル&長男誕生。幸福度100。準決勝で登板、翌日に長男誕生、その翌日に決勝。時差もあり出産の瞬間は寝ていた。準決勝で7回無失点8奪三振。シャンパンファイトでは口に含んだシャンパンをイチローにふきかけ、「お前は人間性に問題がある」と怒られた。
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。09年、33歳でMLBオリオールズと契約。幸福度20。小学生の頃と同じくらい野球を楽しめた。手応えも感じていたが右肘腱部分断裂。肘にテニスボール大くらいの腫れができ、力が全く入らなくなった。年齢もあり一時は引退を考えた。11年、MLB初の移籍でレンジャーズへ。幸福度50。高校の同級生・建山義紀とチームメイトに。建山としてはライバルが増えて迷惑だったという。翌年にはダルビッシュが加入し日本メディアの取材が殺到。13年、38歳でRソックスに移籍し1年目で胴上げ投手に。幸福度95。あえて100ではないのは、この年の最初のうちはクローザーではなかったから。このころ浜田が取材に来たところ、その日の試合は延長が続き24時を回った。浜田としては上原が疲れているのは分かっていたが、取材のため食事に連れて行った。
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- Greg M. CooperNumberアフロセントルイス・カージナルスダルビッシュ有テキサス・レンジャーズニューヨーク(アメリカ)ボストン・レッドソックスボルチモア・オリオールズワールドシリーズ建山義紀読売巨人軍
上原の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。17年、MLBから巨人に移籍。幸福度20。当時42歳。メジャーでの移籍も考えたが、監督が同い年の高橋由伸だったので「貢献したい」と巨人に決めた。19年、シーズン途中の5月で引退表明。幸福度100。
上原が二軍時代に出場した19年5月3日のロッテ戦。球界最年長44歳、今季9度目の登板。 20年前は入団1年目で投手4冠&沢村賞。第1回WBCでは優勝の立役者に。ワールドシリーズでは胴上げ投手に。試合では2球目をプロ5年目・年俸520万円の23歳に打たれ、首を傾げ「風か?」とつぶやいた。この試合のあと、引退することを監督に伝えた。引退会見では涙。最後の試合では全盛期と同じ背番号19をつけ、当時野手最年長だった同級生・福浦和也と対決。この年は一度も一軍に上がれなかった。
上原が思う「未来の幸福度」は80。今後も野球に携わり続けていくつもり。YouTubeは登録者数170万人超えで元プロ野球選手として1位。
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- 上原浩治の雑談魂
ゲストは元マラソン選手の高橋尚子。大阪の大学出身で尼崎の競技場にも通っていた。尼崎がダウンタウンの出身地であることを知っていたので、駅を降りたびに興奮していた。浜田とは今回が初対面。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。72年、岐阜に生まれる。中学は部活強制。もともと走ることが得意だったので陸上部に入部。幸福度50。興味を持ったきっかけは「雷管を鳴らしてみたい」。90年、高校2年で全国都道府県対抗駅伝大会に初めて出場し45位。幸福度-20。大会はテレビ中継されるなど大々的なももので、気合を入れて臨んだ結果がワースト3位でショックだった。両親が試合を見に来てくれたのはこのときだけ。両親は「きょうだいに平等に接する」という教育方針だったので、メダルをとっても飾ってくれなかった。代わりに褒めてくれたのが祖母。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。94年、大学4年で小出義雄監督と出会う。幸福度は唯一の100。教師の家系に生まれたのでその勉強をしていたが、陸上を続けたい気持ちも少しはあった。内定先の学校にこのことを伝えると、「日本一・世界一になる覚悟があるならやれ」とアドバイスされる。ほかの実業団からもオファーが来ていたが退路を断つために断り、当時日本一といわれた小出監督に入団を直訴。最初に言われたのは「うち大学生取らないから」。それでも粘り続け死に物狂いで合宿を頑張り、契約を勝ち取った。まず褒められたのは「踝から下」。あとで聞いたところによると、褒めるところがない人にはそうした言い方をしているそう。「Qちゃん」というあだ名は新入社員歓迎会でアニメ「オバケのQ太郎」にちなんだ出し物をしたことに由来。この出し物は下ネタを多く含んでいる。小出監督が喜び「Qちゃん」と命名。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。恩師は小出義雄監督。厳しい練習を笑顔で命じてくる人だった。今の基準と比べても過酷な練習をしていた。一度断ったところ、「やれたらすごいよな~」とやんわりと強要された。96年3月、初めて日本代表に選ばれ大会2位。幸福度は-25。親に電話で報告すると「1番が当たり前」と詰められた。97年、世界陸上の5000mで13位。幸福度は50。一緒に練習をしていた鈴木博美はマラソンで金。これがマラソンに打ち込むきっかけになる。98年、2度目のマラソンで国内最高記録&初優勝。幸福度60。このころ監督による練習メニューがその日ごとに明かされるシステムで、大会当日のメニューは「日本記録」。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。髙橋は競技中、特に序盤は眠るような感覚で走り続けている。同じ筋肉を使いすぎないよう考えながら走っている。99年、世界陸上を途中欠場。幸福度は-100。コンディションはこの頃が一番良かったが、ケガを押しての出場を心配した監督に「もっと高い山(オリンピック)へ登ろう」と諭され当日朝に欠場を決断。00年、シドニー五輪に出場し国民栄誉賞。幸福度99。あえて100にしなかったのは「まだ満足したくない」という思いから。練習に使ったのは標高3500mの米ロッキー山脈。99年の欠場後に歩いて登った際、車でも頂上まで来れることを知ったのがきっかけ。一時は批判され監督に相談したところ、「金メダルは非常識の先にある」と説得された。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。00年、シドニー五輪で優勝し国民栄誉賞。幸福度99。終盤でサングラスを投げるように外したのは、外したいと思いながらも高いものだったので捨てたくなく監督を探したが見つからず、父親に渡そうと投げたところテレビカメラにぶつかって戻ってきてしまった。当時のサングラスは父が記念として持っている。大会のあと、テレビ朝日SPリポーターを務めていた憧れの福山雅治と初対面。福山は40km地点で観戦。競技中の高橋について「足音がしない」と話していた。足音がしないのは調子が良い証。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。01年、当時の世界最高記録を樹立。幸福度は-80。この大会で世界記録を樹立すれば次の週も出場できる約束だった。当時は「人間は世界記録並みの速さで2週連続走ったらどうなるか」という実験に興味を持っていた。たった一度のレースのために半年以上かけて準備することへ「割に合わない」との思いが強まったため。1周目で記録更新、2周目に向けた準備を進めていたところ監督に「体を壊させるな」と連絡があり欠場。高橋はこのことがショックで、泣きながら家を飛び出して20km走った。03年、アテネ五輪代表落選。幸福度はプラスマイナス0。本人いわく原因は「おごり」。調子は良かったが監督も高橋も無計画で予選に臨んでしまった。
高橋の経歴をその時々の幸福度グラフと共に紹介。08年、引退発表。幸福度は50。きっかけは練習できない日が続いたこと。全力の自分を見失い、誰にも相談せず1人で考え込んだ。19年、恩師・小出監督が死去。幸福度は-100。
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高橋の父からの手紙。「なぜ尚子は陸上を選んだのかを考えた」「小学校の運動会で1位になったのが自信になったんですね」「初めての全国大会で応援に行ったのがかえってプレッシャーになったのでは」「尚子の若い頃は陸上だけで生きていけるような時代ではなかった」「厳しいと言われている小出監督さんによくついていけましたね」「あなたらしさを生かしたマラソン普及活動に今後も取り組むことを願っています」など。母親は高橋が社会人になってからひっそりと応援に行き、番記者には「私が来ていることは言わないで」と伝えていた。
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2026年5月17日(13:55)
