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オープニング映像。
忠犬ハチ公で知られるハチは大正12年に秋田県で誕生した。飼い主は東京帝国大学の農学部で教鞭を執っていた上野英三郎博士。上野博士が出張などで渋谷駅を使うたびに、ハチは博士を送り迎えしていたという。当時博士が住んでいた家は駅まで5分ほどの距離にあったという。ハチが上野博士の家に来て1年ほど、博士は突然帰らぬ人となる。それでもハチは博士を迎えに行っていたという。
今回集まったのは渋谷生まれの渋谷育ちの渋谷区商店会連合会会長の大西さんや大館市観光課の畠山さんら、さらに東京大学農学部に通う青木さんらがスタジオに。星野浩一さんは「ハチと上野博士が歩いているのを見た」とお母さんが語っていたエピソードを披露した。
渋谷駅に通うハチの存在が世間に知られるようになったのは当時新聞に掲載された記事がキッカケだった。そこから渋谷駅にはハチをみるために多くの人が集まった。渋谷駅には今もハチの記録が残されており、全国から寄せられた手紙もあり、歴代の駅長はハチの様子を語り継いできた。当時駅長だった吉川忠一さんは特にハチをかわいがったという。また当時はハチにあやかった商品も販売された。そんな中昭和9年にハチを主役にしたイベントが行われ、その中でハチの銅像を建てようということになり、資金を集めることになった。ハチは生きているうちに銅像になり、除幕式の映像にはその姿が収められていた。
ハチが生きて、動いている映像を初めて見たという照英に松井学芸員は「あの映像は一度しかテレビにも使われておらず、ほとんど見られていない」と解説した。
渋谷郷土博物館・松井圭太学芸員はハチ公の映像のカラー化が夢だという。博物館の持つ資料にはハチ公の喉元の毛があった。NHKの放送技術研究所が開発したAIを利用する最新技術で復元した映像を紹介。
松井圭太は「AIなのではっきりこうだったとは言えないが、すごく近いのではないかと思う」、照英は「上野先生を探しているような目に見えてくる」などと話した。
人々が歓喜に湧いた2年後にハチは11年の生涯を閉じた。当時の記録では駅前から少し離れた場所で見つかったと記載されている。ハチの葬儀では吉川駅長が弔事を読み上げ、多くの人が集まった。
大西賢治は「それだけ渋谷が犬を通して注目されていたということ」、星野浩一は「あの当時は楽しいニュースがなかったから、ヒーローがいなかったのではないか」、松井圭太は「自分の誰かへの会いたい気持ちを重ねることで、身近に切実に感じて人気になっていったのでは」などと話した。
こうして渋谷駅前位に銅像として建つことになったハチ。昭和12年には日中戦争が勃発。渋谷の街も戦時体制に組み込まれていった。渋谷駅付近での戦車のパレードの様子を紹介。昭和18年に国は資源を補うため市民からも金属回収の命令を出した。ハチ公像も翌年に撤去された。昭和20年、渋谷の町は焼け野原になった。終戦から数カ月後の渋谷の闇市の様子を紹介。昭和23年、2代目ハチ公像の除幕式が行われた。
青木馨はきょう着ている法被は当時飼い主の胸像を渋谷に運んでいた時に着ていた本物を借りたものであるなどと話した。
渋谷が若者の町として賑わいを増すなかで、ハチ公像の前では待ち合わせにきていた時間を証明するサービスまで始まった。平成6年には歌が作られ、タイトルは「もう待たなくていいんだよ」と待ち続けるハチへのメッセージだった。
畠山奈緒美は若い頃にハチ公像の前で待ち合わせをしたことがあるが、前後左右の違いで会えるか会えないかが決まっていて大変だったなどと話した。
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- 忠犬ハチ公像
ハチ公が生まれた秋田・大館でも多くの映像資料があった。かつては大館にも渋谷と同じ銅像があったが、戦争のため供出されたそう。昭和62年には映画ハチ公物語が作られ、子犬が旅立つシーンは大館で撮影されたそう。また同年には大館にも銅像が復活し、これを機に毎年慰霊祭が行われるようになった。さらに2000年には渋谷と大館の交流も始まったそう。
工藤剛によると渋谷と大館はハチ公関係で友好提携していて、渋谷では学校給食米に大館の米を使用しているとのこと。
平成21年にはハチ公物語はハリウッドでリメイクされ、ハチ公は世界でも知られるようになった。映画が公開された年には大掛かりな機材を山の上に運び、大文字焼きの文字を犬にしたそう。
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- HACHI 約束の犬
工藤剛は先祖を敬う行事である大文字焼きの文字を犬にしたため怒られたなどと話した。
ハチ公の人気に伴ってハチ公像が大阪や山形など各地に現れるようになった。2015年には東京大学のキャンパスに新しい銅像がつくられ、ハチ公が飼い主を迎える姿が蘇った。そして去年ハチ公は生誕100年を迎えた。