- 出演者
- 和田正人 増田明美 瀬古利彦 森圭介 宮川大輔 羽鳥慎一 井森美幸 ともさかりえ 柏原竜二 カズレーザー(メイプル超合金) 池田美優
箱根駅伝は東京・大手町から芦ノ湖まで2日間で往復217kmを10人でたすきを繋いで走る。たすきには走るランナーだけでなく出場出来なかった仲間たち、家族の思いも込められている。2012年箱根駅伝、鈴木駿の名シーンを紹介。鈴木駿はフラフラになりながらも仲間にたすきを渡した。鈴木駿は「気づいててたら倒れてた。何が起きてるか分からなかった。応援の声で気付いた」などとは話した。
内村光良らの挨拶。和田正人は日本大学の選手として箱根駅伝に出場。柏原竜二は4年連続で区間賞を取り、3度区間新記録を出した。
箱根駅伝最大の敵は大雨、強風、霧、大雪などの自然。中でも最も自然の驚異にさらされるのが山登り。5区、山登りのコースは小田原からゴールの芦ノ湖までの20.8km。標高差は840m。山登りを有名にしたのが順天堂大学の今井正人だった。以来、山を制した者は「山の神」と呼ばれるようになった。柏原竜二や神野大地など山の神誕生の瞬間を紹介した。過酷さについて今井正人は「温度差ですね。気温5~6度くらいかわる」などと話した。
自然との闘い4つの伝説のシーンを紹介。強風のなか繰り広げられた中央大学・藤原正和、法政大学・大村一、順天堂大学・奥田真一郎、三つ巴のデッドヒートの名シーンを紹介した。中央大学が37年ぶり15回目の往路優勝となった。
神野大地も強風の中、5区を走った。そんな神野を裏で支えていたのが、祖母の安江さんだった。安江さんは90年近く続いている鳥の卸問屋「鳥孫商店」を営んでいて、しょっちゅう焼き鳥が遼に送られていたという。
1978年の箱根駅伝、7区の選手が大雪の影響で新幹線が遅れたため東京から小田原までタクシーで来たという。中でも選手たちが恐れているのが凍結だった。2011年の6区での山下り。この日の気温はマイナス1.9℃。路面は凍結し危険な状態だった。2位でスタートした早稲田の高野寛基、1位を抜き先頭になったが、滑って転んでしまった。
2011年の6区での山下り。この日の気温はマイナス1.9℃。路面は凍結し危険な状態だった。2位でスタートした早稲田の高野寛基、1位を抜き先頭になったが、滑って転んでしまった。すぐさま立ち上がり抜き返し、トップでたすきを繋いだ。高野寛基は現在、JR東日本で運転士をしている。この年は早稲田大学が優勝。2位は東洋大学だった。
内村光良は「ずっと見てられますね。高野選手の覚えてる。見てたわ」などと話した。駅伝選手は、下りだと100m15秒のペースで走っている。アームウォーマーなどをして寒さ対策をしているという。
厳しい寒さと闘うランナー、その裏には知られざる寒さ対策があった。神野大地は「手袋2枚付けている」などと話した。今井正人はオリーブオイルを塗っていたという。2008年の箱根駅伝、順天堂の小野裕幸は残り1kmを切ったところで、脱水症状と低血糖で倒れてしまった。
2008年の箱根駅伝、順天堂の小野裕幸は残り1kmを切ったところで、脱水症状と低血糖で倒れてしまった。何度も立ち上がり走るも残り460mでリタイアとなった。4年生になった小野は翌年、同じ5区に挑んだ。リタイヤした場所には応援の横断幕がはられていた。区間2位となりリベンジを果たした。
羽鳥慎一は「個人競技だったら絶対に棄権してる。そこをやめないのが箱根駅伝」などと話した。5区で一番きついところは宮ノ下と呼ばれている場所だという。柏原竜二は「えんどうに観客いたほうが視界が一本になるので楽」などと話した。観客からはヤジや嘘のタイム差を言ってくる人もいるという。
100年の歴史の中で数々のスターを生み出してきた箱根駅伝。2000年、1区で天才と呼ばれたのが法政大学の徳本一善だった。徳本はトップで区間賞を獲得。翌年は2区で走りトップでたすきを繫いだ。最後の箱根駅伝、徳本は2区を任された。トップを走っていたが5km地点で、肉離れ。それでも徳本は走り続けた。監督が止めに行くがそれを振り切り走り続けた。7.3km地点で監督に無理やり止められリタイヤとなった。救急車を待つ間、徳本は3区を走るチームメイトに謝ると、次は監督や応援者などに謝り続けていた。
2002年の箱根駅伝、法政大の徳本一善はまさかのリタイア。その時現場にいた羽鳥は声をかけることが出来なかった。あれから21年、徳本にあのときの思いを聞いた。徳本は現在、駿河台大の駅伝監督をしている。当時の映像を見て徳本は「1週間前くらいから痛くて、我慢してやってた。自分が走ったほうがチームに貢献できるっていう驕りがあった部分があった。痛くなっても1時間我慢すればいい。切れる止まるとか最悪の状況を考えていなかった。僕の判断ミス」などと話した。自分が監督になって何度も止めに入った成田監督の判断について徳本は「監督しては止めないといけない場面なんだって理解はできる、選手としてって考えると、あそこで選手生命終わってでもいいから、渡したかった思いはある。自分の前で起きたら、止めるけど手は震える」などと話した。立ち直ったきっかけは、父親からラスベガスに行くぞと言われ100万使ったことだった。
2009年の箱根駅伝。5区山登りに突如スターが現れた。それが東洋大学の柏原竜二だった。
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- 第85回東京箱根間往復大学駅伝競走
5区山登りで区間賞に輝いた名ランナーのシーンを紹介した。2016年、日大のキトニーは9人抜きで区間賞となった。2009年の箱根駅伝。5区山登りに突如スターが現れた。それが東洋大学の柏原竜二だった。柏原は8人抜きで1位。東洋大学が往路初優勝となった。増田明美にとって伝説のシーンは柏原が最後の箱根でみせた走りだった。20011年、東日本大震災が起き、福島出身の柏原は練習の合間をぬって募金活動を行った。練習は身が入らない時期もあったという。全日本大学駅伝で柏原は2位でたすきを渡され、逆転優勝を期待されたができなかった。このとき、同じ福島出身の酒井監督からの「勝てない人間が頑張ろうといくらいっても説得力がない。我々のやるべきことは勝ってコメントを出すことだ」という言葉に支えられたという。福島を勇気づけるには勝つしかないと、柏原は大会直前まで走り込んだ。2012年の大会で柏原は阿修羅のような顔で走り1位でゴール。東洋大学は往路4連覇となった。
山の神の柏原竜二は、2012年大会について、先頭1区~4区の選手がたすきを渡してくれたので、スタート直後はめちゃくちゃ浮かれていたといい、それを酒井俊幸監督が見透かしていてほとんど声をかけたことがないが、今日勝ってちゃんと締めるぞと言われてからスイッチが入ったという。山上りの5区で4年連続区間賞、その秘密が1年かけて開発したシューズにあるという。柏原は今は厚底が主流だが、前までは軽さが勝負と言われていたと説明。柏原は当時は軽さを求めているので、綿を詰めないようにしてたが、土踏まずのところに綿を詰めてもらったりとか開発に1年弱かかったという。
箱根の8区の茅ヶ崎沿道の名物といえば、地元茅ヶ崎で応援すること64年・徳光和夫。徳光和夫は、びっくりしたことにこの間地図に徳光応援地点とか乗っていたという。巨人ファンだが、巨人の開幕戦より箱根駅伝が楽しみだといい、富士山が見事に裾野まで広がっていて、その富士山を背景に選手が走ってくる、静の霊峰、動の選手たちがたまらなく絵になる、この景観を走っているのは世界のどこにもない、友情や青春、母校愛であったり、箱根駅伝は魅力があると話していた。
64年間箱根駅伝を見続けてきた徳光が選ぶ伝説のシーン1つ目は、珍プレーの1位に挙げた2011年10区。上位3チーム、翌年シード権を獲得する。國學院大の寺田夏生に番号する車には前田監督。寺田はフィニッシュまで120mでコースを間違えるが國學院がなんとかシード権を獲得した。寺田が間違えた東京・大手町の交差点は箱根ファンから寺田交差点と呼ばれている。
徳光が選ぶ伝説のシーンは、駅伝おばさん。駅伝おばさんとは中央大学が宿泊していた好楽荘の女将・曽我益子さん。約30年、中央大の学生を並走で応援する。69歳で亡くなるまで走り続けた。