- 出演者
- 和田正人 増田明美 瀬古利彦 森圭介 宮川大輔 羽鳥慎一 井森美幸 ともさかりえ 柏原竜二 カズレーザー(メイプル超合金) 池田美優
徳光が涙なしでは語れない伝説のシーン。2006年8区でトップを独走していたのは順天堂大の難波祐樹主将。例年通り徳光も8区の沿道で応援。徳光は、俺の前を青春の映像そのもので走っていった、記録の残る素晴らしい優勝になるんじゃないかと、家に帰ったら別人が走っているような、最初信じられなかったと振り返る。徳光が声をかけた30分後、難波は脱水症状かもしれない状態で、フラフラで走っていた。
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- 東京箱根間往復大学駅伝競走難波祐樹
徳光が涙なしでは語れない伝説のシーン。2006年8区、2位と2分以上差をつけてトップを独走していた順天堂大学の難波祐樹主将。優勝は確実と思われていたが、難波は脱水症状を起こしていた。これを見た順天堂大の仲村明監督は、車を降り水を難波に渡す。残り1キロで2位駒澤がすぐ後ろに。そして駒澤が逆転。何とかたすきを繋いだ。レース直後、難波が呟いたのは、たすきがないと、繋いだタスキの行方を気にかけていた。この時難波を介抱していたのが後輩の今井正人。伝説のシーンの裏には今明かされる真実が。翌年、難波の跡を受け順天堂大学の主将となった今井正人は、5区で区間新記録を達成。最終10区のゴール前には、難波祐樹もいた。徳光は、難波の襷という言葉は今井くんの頭の中には非常にインプットされた、今井を奮い立たせたタスキリレーだったと語っていた。
瀬古利彦は、2006年8区について、2位と3分差でトップだったといい、普通に走ればトップでつなぐ、駅伝は何があるかわからない、コメント。増田明美は、難波は京都の洛北高校という高校で名監督になっているという。
100年の歴史で最多優勝したのが、1964年に6連覇を達成した中央大学。2位が早稲田大学。中でも花の二区を走る早稲田のエースは日本を代表するランナーがズラリ。1991年2区に1年生ながら大抜擢されたのが櫛部静二。増田明美は、途中からどうしちゃったんだろう?フラフラになって低血糖なのかなと見ていたと振り返る。櫛部静二は途中からあるきだしてしまったが、再び走り出す。フラフラになりながらも襷を繋いだ櫛部。この裏には衝撃の事実が。あれから32年、52歳になった櫛部静二に当時の映像を見てもらうと、櫛部は汗が出ますね、うまく言葉では言えない、いい思い出ではないと話す。体が言うことを効かなくなって、低血糖状態、脱水状態になって、襷を届けないと大変なことになる、それ以外ほとんど記憶にない、と振り返った。当時、早稲田大学コーチだった瀬古利彦は、大学1年の時に区間11位で、櫛部に「箱根の失敗は箱根で返すしかない」と声をかけたという。1993年早稲田の1区を任された櫛部。沿道の瀬古コーチは櫛部にエールを送る。櫛部は1区で区間新記録。箱根の失敗を箱根で返した。その後、櫛部静二さんは城西大学の指導者に。就任3年で城西大学を箱根駅伝初出場に導いた。
あの日の櫛部と同じ苦しみを味わった教え子がいる。2009年城西大の8区を任された石田亮は、スタートから攻めた走りを見せるが、襷を待つ次の中継所に石田が来ない。カメラが捉えたのは棄権した石田の姿。低血糖症に襲われ残り1.7kmでリタイア。石田は何度も誤り続けた。その裏にはある人への思い。石田亮(35)は当時について、伊藤一行とは2年間一緒に大学で生活させてもらったが、自分のブレーキで最後の箱根駅伝を嫌な思い出で塗りつぶしてしまったと明かす。伊藤一行は学校名がない白の襷をかけて9区を最速のタイムで走りきった。しかし襷が途切れていたため幻の区間賞となった。責任を感じていた石田。キャプテンの伊藤一行は「危険という結果になったがそれは走った選手が勝ちたいという気持ちが強かったためこういうふうになったのでその選手をたたえてやりたい」と話した。伊藤の言葉で前を向いた石田は再び走り始めた。翌年再び箱根の舞台に戻ってきた石田。石田の1年間の努力を見守ってきた母秋子さんも沿道に。区間2位のタイムで襷を繋いだ。櫛部静二は伊藤一行と石田の姿に「涙を我慢していた」といい「私と同じ境遇というか失敗によって苦しんだと思う 成績を出した石田 それを喜ぶ伊藤 そういう姿を見て指導者として嬉しいと思った」という。現在2児の父となった石田さんは、2人の息子に対して密かに抱いている夢がある。
井森美幸はキャプテンの「称えてやりたい」というコメントで次の年も頑張れたのかなと思うと話していた。和田正人は、不思議なもんで沿道の声はうるさいのに親の声だけ絶対届くと語っていた。早稲田大学の櫛部静二について、コーチになって1年目で、絶対リベンジしろ、お前みたいに練習見たことない、とまじないをかけたら走ってくれたと話していた。
箱根駅伝100年で1回の珍しい出来事を紹介する。最初の事件は1977年6区で日体大4年の塩塚秀夫が8km地点を過ぎた時点で犬がコースに乱入。塩塚を後方から追い抜き、2.5km並走した。それでも塩塚は区間新記録を打ち立てる。現在は東亜大学(山口県)で女子陸上部の監督を努めている塩塚は、ワンちゃんが言うことをきかない、それがおかしくて笑いながら走った、と振り返っていた。
1964年3区、国士舘大の村上孫晴は、順位は3位で2位との差は34秒。残り8kmの時点で事件が。村上は早く走るために驚きの行動を取ったが何をしたのか?ともさかりえは、靴を脱いだとかと予想していた。
1964年3区、国士舘大の村上孫晴は、順位は3位で2位との差は34秒。残り8kmの時点で村上は靴を脱いで裸足になり、靴を沿道に投げた。そこからスピードを上げ2位を追い抜くと、裸足で8km走り区間新記録を樹立。なぜ裸足になったのか。現在、84歳の村上孫晴さんに聞くと「裸足が一番軽い 靴のぶん足が軽くなるから早く節れると思って脱いだ」と話していた。当時のシューズは種類がなく、足の甲が高い村上さんには合わなかったという。
長野県松本市でりんご農家を営む元箱根ランナーの太田貴之。妻・かおりさんとの出会いは、箱根駅伝を見てすごく感動して、手紙を書いたのが最初だという。2003年8区を走った太田貴之の闘志あふれる走りをテレビで見たかおりさんは、必死に走っているのを見て、もっと頑張らないとと思ったといい、手紙をしたためた。ここから文通が始まり、1年後箱根駅伝直前に太田はかおりさんに「箱根駅伝で優勝したら僕と付き合ってください」と告白。運命の箱根駅伝で太田は区間2位に快走をみせると優勝した。その2年後に結婚。
1921年第2回大会。警察官の前田喜太平は東京・日比谷交差点で警備に当たっていた。元々走ることが好きだった前田は、選手の走り、沿道の盛り上がりに興奮を抑えきれなくなり、走り出したくなるほど魅了された。すると1922年 第3回大会で前田は警察をやめ、日大駅伝部へ。憧れの箱根路を走った。さらに前田は、2・3年生のときも箱根に出場。4年生で出場した第6回大会では、花の2区を走り区間賞の大活躍。卒業後ky講師になり、ランナーの育成の尽力したという。
1990年6区。スタート直後に亜細亜大学の田中寛重は引き返していく。一体何を忘れたのか?
1990年6区。スタート直後に亜細亜大学の田中寛重は引き返していく。田中はスタート地点で襷をかけていないかった。当時について田中さんに聞くと、忘れたのに気づいたのは「1回下をむいた時 二度見する」「スタート地点まで戻って係員にどうしたんだ?と聞かれたので、襷がないんですと叫んだ」という。思い出すので箱根駅伝だけは見れなかったという。立ち直るキッカケは16年後、2006年の箱根駅伝。母校・亜細亜大学の後輩たちの姿。田中さんは、超感動した、優勝は勇気づけられたと話していた。すると翌年一念発起し36歳で会社を立ち上げた。ちなみに現在はスタート地点で係員が襷をチェックしている。
100年の歴史の中でランナーを苦しめたのが大雪。過去雪のレースは16回。中でも記録的な大雪だったのが、1952年第28回大会。5区の山上りを走った成蹊大 佐藤一雄のインタビュー映像が残されていて、「小涌園を過ぎると雪が約30cm 寒くてセーターが凍る 走れる状態ではない」と話していた。倒れちゃいけないとその時、佐藤は何かを見つけて走り出した。そこにはお団子屋さんがおまんじゅうを出してもらったという。再び走り出す頃日が暮れ始め、沿道には多くの人が待っていた。先頭から50分以上遅れたが温かい声援に包まれた。
1920年第1回大会に出場したのはわずか4校。開催日は2月14日~15日。現在は朝8時のスタートだが、当時は午後1時のスタート。しかし5区の山上りに入ったところで真っ暗に。当時は外灯もなく、このままでは中止の危機。真っ暗の山上りを成立させた方法は?生田絵梨花は、花火を上げたと答えていた。土屋峯三さんは、松明持って途中まで行ってやってましたよと話していた。そこでインタビューを元に、山の神・柏原竜二が再現した。柏原竜二は、松明の火は見えづらい、火のゆらぎでチラチラしてしまうので目の神経を使う等と話していた。第2回大会からは午前中スタートに変わった。
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- 土屋峯三第1回東京箱根間往復大学駅伝競走
毎年のように箱根沿道で応援している石田ひかりは、家の側をみなさん走っていくので、沿道に出てご近所さんと一緒に応援をしているという。20年以上箱根を見てきた石田が衝撃を受けた選手が2022年の中央大の吉居大和選手。前半からトップを独走し、東海大・佐藤悠基の区間新を大幅に上回るペースで進み、それまでの記録を26秒更新し、15年ぶりに区間新を達成した。
石田は、レースが始まってしまうと選手しか走ることはできない、監督は代わりに走ることはできないから、一生懸命激励しているのがよく見ます、コミュニケーションが見られた時にすごく胸にジーンとくる等と話していた。しかし時に監督は難しい決断を強いられることも。2001年東海大学の2区を任された4年生の伊藤孝志を待っていたのは過酷な運命。レース前日、伊藤孝志は高熱を出し、出場は厳しいと思われていた。それでも翌朝熱が下がったため、大澤良司コーチに出場を直訴。コーチのためにも襷をつなぎたい。しかし、伊藤ははをむき出しにしたまま額に汗を浮かべていた。伊藤の起用を決めた大澤コーチは自らを責めた。東海大学の石田義久監督が車で近づいた。この時の伊藤の状態について元監督の石田義久監督は「本人が全然反応がない 声をかけても通じなかった 水をかけるしか私の頭にはなかった」と振り返る。大澤コーチは力の限り名前を呼び続けた。東海大学は棄権となり、最後の箱根で襷を繋げなかった伊藤。現在伊藤孝志さんは、自衛隊体育学校の教官として指導している。当時の映像を見てもらうと「これは消えることはないと思う この罪悪感 監督、コーチ、仲間に対して申し訳ないことをしたという思いが強い」と話していた。中でも特別なのが大澤コーチへの思いで「判断を任せてしまった 私はそこに甘えてしまった 本当に申し訳にない 迷わせてしまった」と語る。一方、元コーチの大澤良司さんは、4年生でブレーキ状態になるのは、後々の人生に引きずる、孝志に申し訳ないことをしたという思いはある、などと語った。卒業しても変わらない二人の絆。
瀬古利彦は、2区の選手はエース、エースを代えるというのは監督はものすごい勇気がいる、少しぐらいの熱を出しても走ってくれると信じたい、それが裏目に出ちゃったと語る。中央大学の吉居大和選手が15年ぶりに区間新を更新したがなぜ15年破れなかったのかという質問に、瀬古利彦は、記録を狙う区間じゃない、流れを作るので冒険をしないなどと説明していた。
2021年、13年ぶり7回目の総合優勝を果たした駒澤大学。駒澤大学の大八木弘明総監督は、欽ちゃんと出会ってから選手達がレベルアップしてくれた、勉強させてもらったと明かす。萩本欽一がテレビで初めて語る駒澤大学との秘話。2015年、駒澤大学に73歳で入学した萩本欽一。萩本欽一は入学式の日に迎えてくれたのが駅伝の大八木監督だったという。欽ちゃんが入学する3か月前に優勝を逃した駒澤大学。そのときに5区山上りを任されたのが馬場翔大。低体温症に陥り体が思うように動かなくなる。残り50mで馬場翔大は手をついてしまいながら気力だけでは知り切った。しかし優勝を逃してしまった。馬場は責任を感じ思い詰めていた。大八木監督はチームを励ましてほしいと思い萩本欽一に声をかけた。萩本欽一は、第一線で活躍する秘訣を聞かれ、成功した時喜ぶ時間を短く、失敗したとき悲しむ時間を短くすることだと答えた。その言葉を誰よりも心に刻んだのが馬場だった。馬場は箱根を目指し走り始めた。萩本欽一がもう一人仲良くなったのが2年生の工藤有生。迎えた2016年の箱根駅伝に欽ちゃんも応援に駆け付けた。この後馬場がリベンジの激走。
駒澤大学の選手と交流を深めた欽ちゃんは2016年箱根駅伝の応援に駆け付けた。優勝を狙う駒澤だったが、1区から出遅れた。2区は欽ちゃんとなかよしの工藤が13位で襷を受けると、5位まで順位をあげた。工藤を労った欽ちゃんはしりとりを始める。8区にはリベンジに燃える馬場翔大。1年間の努力を見守った母・文子さんも沿道に。区間2位、最後まで笑顔で襷を繋いだ。欽ちゃんの言葉、行動で変化した選手たち。大八木弘明監督は、欽ちゃんと出会ってからは前の指導ではなくなったという。厳しい指導で2008年には優勝したものの、以来、シード落ちなど優勝から遠ざかっていた。大八木監督は、ボスからリーダーに変わったような感じだと話していた。すると2021年に駒澤大学が総合優勝を果たした。萩本欽一は大八木監督に「2連覇?不可能だから 駒澤対策で作戦をねっているから、ツッコミ入れとこう 2連覇はないから 青山学院頑張れ!」とエールを送っていた。