石田は、レースが始まってしまうと選手しか走ることはできない、監督は代わりに走ることはできないから、一生懸命激励しているのがよく見ます、コミュニケーションが見られた時にすごく胸にジーンとくる等と話していた。しかし時に監督は難しい決断を強いられることも。2001年東海大学の2区を任された4年生の伊藤孝志を待っていたのは過酷な運命。レース前日、伊藤孝志は高熱を出し、出場は厳しいと思われていた。それでも翌朝熱が下がったため、大澤良司コーチに出場を直訴。コーチのためにも襷をつなぎたい。しかし、伊藤ははをむき出しにしたまま額に汗を浮かべていた。伊藤の起用を決めた大澤コーチは自らを責めた。東海大学の石田義久監督が車で近づいた。この時の伊藤の状態について元監督の石田義久監督は「本人が全然反応がない 声をかけても通じなかった 水をかけるしか私の頭にはなかった」と振り返る。大澤コーチは力の限り名前を呼び続けた。東海大学は棄権となり、最後の箱根で襷を繋げなかった伊藤。現在伊藤孝志さんは、自衛隊体育学校の教官として指導している。当時の映像を見てもらうと「これは消えることはないと思う この罪悪感 監督、コーチ、仲間に対して申し訳ないことをしたという思いが強い」と話していた。中でも特別なのが大澤コーチへの思いで「判断を任せてしまった 私はそこに甘えてしまった 本当に申し訳にない 迷わせてしまった」と語る。一方、元コーチの大澤良司さんは、4年生でブレーキ状態になるのは、後々の人生に引きずる、孝志に申し訳ないことをしたという思いはある、などと語った。卒業しても変わらない二人の絆。