- 出演者
- 里見まさと(ザ・ぼんち) 友近 千原ジュニア 小籔千豊 後藤輝基(フットボールアワー) ぼんちおさむ(ザ・ぼんち) バカリズム 井口浩之(ウエストランド) ヒコロヒー せいや(霜降り明星)
オープニング映像が流れた。この番組では放送100年の歴史を振り返る。笑いの瞬間をお届けする。
オープニングトーク。司会は爆笑問題と中川家。千原ジュニアは「久しぶりにオンエアを見る。」等とコメントした。友近が十朱幸代さんのモノマネを披露した。
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- 十朱幸代
横山エンタツと花菱アチャコがラジオに目をつけて漫才のネタを変える事に着手した。日常会話のようなかけ合いを行う事を思いついた。衣装にはスーツを選択し、ラジオ放送でしゃべくり漫才を披露した。野球の早慶戦をネタにした漫才は人気となった。しゃべくり漫才が全国に認められた。アチャコは「お手本はない。毎日が勉強だった。」等と話している。身近な話題を盗み聞きする毎日をアチャコらは過ごしていた。喜味こいしはアチャコらについて「立派なものだと思う。聞いて頂くには喋る方が神経を使う必要がある。電車に乗ったらお客さんの話を聞けとエンタツ先生に言われた。」等と話していた。その後、様々な漫才師が登場した。
エンタツ・アチャコが切り開いた漫才についてのトーク。太田光は「NHKは昔から無茶振りしていた事が分かった。」等とコメントした。小籔千豊は「新しい事をしているからお手本はないという事を聞いてリスペクトが高まった。」等とコメントした。
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- エンタツ・アチャコ
「放送芸能祭」でのリーガル万吉らによる漫才。「夜の指定席」での中田ダイマル・ラケットらによる漫才。「東西ゴールデン寄席」での人生幸朗・生恵幸子による漫才。「お好み演芸会」での昭和のいる・こいるによる漫才。「上方演芸ホール」でのはな寛太・いま寛大による漫才。「笑いがいちばん」での海原はるか・かなたによる漫才。「お笑いネットワーク」での海原千里・万里による漫才。
しゃべくり漫才レジェンドについてのトーク。田中裕二は「談志師匠がリーガル千太・万吉を聞けと言っていた。」等とコメントした。バカリズムは「内海好江師匠が日本映画学校時代の漫才の授業の講師だった。ライブに誘われた。感性が凄かった。」等とコメントした。後藤輝基は「はな寛太・いま寛大のテンポを止める漫才に爆笑していた。」等とコメントした。ヒコロヒーは「海原はるか・かなたに憧れた。しかし、現在2人は限界を感じている。」等とコメントした。
1980年代、「THE MANZAI」が放送。漫才を新たなエンタメとしてショーアップした。斬新な演出に若者たちは一気に心を奪われ、出演した芸人たちを一夜でスターにした。
B&Bや星セント・ルイスなどの漫才ブームレジェンド名場面集を紹介した。
「THE MANZAI」の視聴率は回を重ねるごとにうなぎのぼり。ネタの中からはいくつもの流行語が生まれた。出演する漫才師の中でもトップクラスの人気を誇るザ・ぼんちが出したレコードは80万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。漫才ブームは2年ほどで終了したが漫才師が歌手や役者などと肩を並べその後の放送の世界を大いに盛り上げるきっかけとなった。
1980年代の漫才ブームについて。友近さんは「太平サブロー・シローさんに会いたくてお笑い芸人になろうと思った、漫才の中のものまねに子どもながらにワクワクした」などと話した。ゲストにザ・ぼんちの2人が登場。THE MANZAI出演後についてザ・ぼんちの2人は「人生変わりました」などとした。バカリズムさんは2人に「いつから今のスタイルになったんですか?」と質問した。「55、6歳くらいのときから今のスタイルになった、何か自分たちのスタイルを見つけようと中堅・若手の漫才を見た」などと答えた。
「100年後も語り継がれる現役漫才師」について。友近さんは「ナイツ」を挙げ「毒舌なのに笑っちゃう」などと話した。せいやさんは令和6年度NHK新人お笑い大賞で優勝した「エバース」を挙げ「人間力が2人ともあるから細かい設定で山場を作れる」などと話した。
「コント」について。日本では漫才と対をなす笑いの王道として様々な芸人たちがコントを演じてきた。コントをきっかけに銀幕スターへと駆け上がった人も数多くいる。
「コント55号」は坂上二郎と萩本欽一のコンビ。徹底したアドリブ主義を掲げ、その場の客に合わせて作り上げるコントは元来の芝居のようなコントとは大きく違っていた。コント55号についてビートたけしさんは「坂上さんは誘い笑いが上手い」などと話した。ただテレビマンは2人のアドリブコントについていけないことが多々あったという。アドリブコントで笑いの表現の幅を広げたコント55号。彼らの冠番組「コント55号の世界は笑う」は平均視聴率30%超えとなった。
コミックバンドとして人気を博したザ・ドリフターズが挑戦した公開生放送のコント番組「8時だョ!全員集合」。緻密に計算されたボケとアクションで、リーダーのいかりや長介は、コント55号とは真逆の台本主義にこだわった。メンバーは当時について、毎週木曜日3時にTBSで打ち合わせをしていた、終わるのは早くて夜11時か12時、明け方になることもしばしばあったなどと振り返る。名物「屋台崩し」は、生放送という緊張感もあいまって、お茶の間は釘付けになった。パトカーが屋根に飛ぶ演出は、いかりや長介が提案したという。いかりや長介の台本主義に、当時の制作スタッフも食らいついた。美術デザイナーの山田満郎は、番組開始から終了まで、のべ803のセットをデザインした。山田は、番組が失敗したらドリフターズは無くなっちゃうから、いかりや長介は真剣だった、危険なことをやめないで、いかに安全にやるかが大事だなどと話した。「8時だョ!全員集合」は、お笑いバラエティー番組史上1位となる最高視聴率50.5%を記録した。
アドリブ主義の萩本欽一は、「8時だョ!全員集合」の裏に次なる番組「欽ちゃんのドンとやってみよう!」を持ってきた。視聴者からのはがき投稿を萩本欽一得意のアドリブでコントやトークに仕立て上げる、いわゆる「素人いじり」と呼ばれる演出方法を編み出した。これが大ウケし、放送から半年で、「全員集合」の視聴率を超えた。世間では、土曜8時の視聴率争いが「土8戦争」と呼ばれ、注目を集めた。当時について、加藤茶は、欽ちゃんは、お客さんを使って笑わすのがうまい、うちはアドリブで笑わせられないから物を作るなどと話した。萩本欽一は、加トちゃんがやっているのは、練習しているように見えないからすごい、お互いの領域を荒らさずに、両方とも心地よく、いい時代のテレビがやれてよかったなどと話した。
欽ちゃん・ドリフの思い出について、バカリズムは、ドリフ大爆笑の「バカ兄弟」を挙げ、「全員集合」ではツッコミ役をやっているいかりや長介がボケをやる破壊力が大好きだったなどと話した。太田は、「バカ兄弟」が好きで、「ポンキッキーズ」でやりたいと言ったら、「バカがバカの弟にものを教える」という構図が放送的に許可されなかったから、ねずみにした、ねずみなら人間界のことを知らなくても、バカということにならないなどと話した。井口は、萩本欽一とは直接話したことはない、第2の欽ちゃんを探すオーディションに参加した芸人は事務所から、欽ちゃんには絶対に質問してはいけないと言われていたが、オーディションの最後に、欽ちゃんが「何か質問ある?」と言い、参加者が戸惑ったという噂は聞いたことがあるなどと話した。
ドリフターズを脱退した荒井注の後任として入った志村けんが「東村山音頭」を期に大ブレイクし、全員集合復活のきっかけとなった。
「土8戦争」の思い出についてトーク。太田光は「小学校3年くらいまで荒井注さんがいた。欽ドン!は大人向けだから浮気するの俺達は。今度低学年の奴らが志村!志村!って言い出す。志村なんか認めねーよっえ見てみたらめちゃくちゃおもしろい!」などと話した。ここでフジテレビが逆襲の新番組「オレたちひょうきん族」を仕掛ける。友近は「のりお師匠とかの破天荒さ。それで皆さんが楽しんでるんですよね、ブラウン管の中で」などと話した。バカリズムもひょうきん族に影響を受けているそうで「ひょうきん族ってコント番組にしては演出がオシャレだった。演出がすごい好きでした」などと振り返った。