- 出演者
- 福澤朗 今田耕司 菅井友香
オープニング映像。
今回は番組に出演する鑑定士の経歴や普段の仕事などを紹介していく。
中島誠之助氏は1938年に東京・青山で生まれ、1歳の時に両親が肺炎に罹り死別する。その後は横浜の芸妓が育ての親となったが戦後の混乱で離別し、10歳の時に茶道具商をしていた伯父の養子になった。ここで後継ぎのために骨董について勉強し、その一方で赤坂の寺に通って禅の精神を教わっていた。通っていた芝学園では生物部部長を務め、青年時代には世界一周を夢見て遠洋マグロ漁船に乗り込んだこともあった。この時寄港したシンガポールで華僑の土産物店を覗いた所「商戦」と書かれた掛け軸を見て神の啓示だと思い、商人の道を決意した。22歳で陶磁器の世界に入り、30歳で独立。1976年に南青山で古伊万里染付専門店「からくさ」を開き、世に古伊万里ブームを巻き起こした。また店の前の通りに骨董通りと命名したのも中島氏。1994年の番組放送開始当時からレギュラー出演し、ゆうもあ大賞も受賞するなど活躍し続けている。
骨董通りを命名したのも中島誠之助氏で、中島氏は「名前をつけるまでタクシーの運転手に説明しにくかったので名前を付けた」など話した。また元気の秘訣については「スクワットを毎日60回」など話した。中島誠之助氏が肌見離さず持っているお宝は「小学校1年生の時の遠足で拾った石」で、81年間いつも持ち歩いているという。中島氏は「幼くして両親を亡くしたので心の拠り所になっている」など話した。
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- 中島誠之助藤沢市立 第三国民学校骨董通り
書画界のハンカチ王子こと田中大を紹介。京都と銀座に店を構え、美術品販売のみならずギャラリー運営・学術出版など幅広く手掛ける日本屈指の美術商「思文閣」の代表取締役。1964年京都市の生まれで、4人兄弟の末っ子長男。思文閣の3代目ボンとして育った。高校2年生の時にオーストラリアに語学留学し、実践英語を身につけその後通訳のアルバイトでニューヨークのオークションに参加した。24歳で思文閣に入社した。その審美眼が広く認められ、35歳で社長に就任。40歳の時になんでも鑑定団に初出演した。再来年は思文閣創業90年で、国内のみならず海外にも目を向け、世界のアートフェアにも出展するなど様々な試みを重ねている。
自分のエピソードについて田中大は「皆が偽物だと言っているのを買ったら本物で、調子に乗って横山大観の偽物を買ってしまった。」などと話した。宝物について田中大は「両親が着けていた腕時計で、カバンの中に入れて持っている。」などと話した。父の周二さんについて中島誠之助は「新幹線の中で周二さんにお会いしたら、世の中は反対する人間が50人なら賛成も50人いると言われ、偉い方だと思った。」などと話した。
山田啓次郎さんのお宝を紹介。明治時代、関西の住む親戚の家に滞在した際、お礼に描いてくれたもの。
山田啓次郎さんの依頼品は「横山大観の作3点」。山田啓次郎さんは「金屏風と天袋は明治時代に大観が関西に住んでる叔父の家に泊まりに来て、宿代で描いたものだと言われている。」などと話した。
明治・大正・昭和を生き抜いた近代日本画の巨匠・横山大観。圧倒的な気迫と卓越した筆で日本画の未来を切り開こうとした美の国士。明治元年、水戸藩士の家に生まれ、19歳の時、東京美術学校の創立を知り、画家になろうと決意。にわか勉強で受験すると見事合格。当時社会は急速に西洋化する中、校長の岡倉天心はあえて東洋美術の素晴らしさを解き、日本独自の芸術を発展させるよう指導。横山大観はこれに深く共鳴し、天心を師と仰いだ。東洋美術の真髄を掴むべく、大観はひたすら古典名画と対峙し、その記憶を頼りに模写。腕を磨き、卒業制作では最高点を獲得した。菱田春草らと共に、29歳の時、日本美術院を創設。空気を描く方法はないかとの天心の問いに触発され、挑んだのがハケでぼかす技法。しかし、世間からは朦朧体と揶揄され、作品は売れず。日本美術院は経営難に陥り、上野から五浦に移転。貧困の中でも黙々と絵筆を握り、独自の画境を切り開いていった。 横山大観が目指したのは写実そのものではなく、気品や静寂といった深い精神性を絵に宿すこと。作品は人々の心を掴み、名声は高まっていった。55歳で描いた大作「生々流転」は独自の水墨技法を駆使し水の一生を描いたもの。「夜桜」は61歳の時、ローマで開かれた日本美術展のために描いたもの。日本古来の美を世界に向けて歌い上げた。89年の生涯を閉じたのは昭和33年。死後、大観の脳は東京大学医学部で保存されることになった。脳の萎縮は60歳前後で驚くべき若さを保っていたという。依頼品は横山大観の作・3点。
横山大観作・3点を鑑定。本人評価額は500万円。結果は1000万円。3点とも横山大観の作品に間違いないとのこと。天袋は明治40年前後のもの、屏風は明治44年の作だという。
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- 横山大観
サッカー界のレジェンド井原正巳さんが登場。小学3年からフォワードでサッカーを始め筑波大学入学後にディフェンダーに転向、頭角を現し大学2年で日本代表に選出された。卒業後は日産自動車サッカー部に入団、1993年Jリーグ発足するとオールスターサッカーにファン投票最多得票で出場した。日本代表としても活躍、高さと粘り強い守備からアジアの壁と称された。1993年アメリカW杯アジア最終予選でロスタイムで初出場を逃したドーハの悲劇があり、1997年フランスW杯アジア最終予選ではキャプテンとして奮闘したが苦戦、岡田武史新監督が就任し動揺の中招集しビールを飲みながら本音で語り合い結束をはり、アジア第3代表決定戦では岡野雅行が決勝ゴールでW杯初出場を決めた。1998年フランスW杯では3試合先発フル出場、12年間日本代表に選出され国際Aマッチ122試合に出場、歴代4位ということ。
サッカー界のレジェンド井原正巳のお宝は「フランスW杯実使用ユニフォーム」「フランスW杯実使用スパイク」「フランスW杯最終予選実使用キャプテンマーク」。スパイクは自前でNIKE製、キャプテンマークはFIFAから支給され試合後回収されたため残っているのは最終予選のものだけということ。本人評価額は30万円だった。
依頼品は「井原正巳がフランスW杯で着用したユニフォーム・スパイクと予選で付けたキャプテンマーク」。鑑定額は430万円。
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- 1998 FIFAワールドカップ
依頼人は千葉県銚子市にある圓福寺の第46世住職・平幡照正さん。平幡さんは9年前に番組に出演し、「嵯峨本の徒然草」を出品した。鑑定額は1500万円だった。今回は中国の古書を出品。
今回、平幡照正さんの依頼品は「中国宋時代の版本”韓昌黎集”9冊」。
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- 韓昌黎集
印刷技術が急速に高まった宋時代。古より手書きで伝わった優れた詩や論説文が木版印刷され出版された。韓昌黎集もその1つで、唐時代の文人が紡いだ詩文集だが、現代人にも深く共感を呼ぶ生きるヒントや教訓が記されている。著者は韓愈。政治家にして思想家で唯一無二の天才文学者。768年河南省南陽の生まれだが、自ら河北省昌黎県出身と称したため、昌黎とも呼ばれた。幼い頃から独学で詩文を学び、出世を見て都に向かい苦学の末官吏の職についた。もとより実直な人柄で、道にそぐわぬと思えば皇帝でも構わず糾弾し左遷されることもあったが、ついには文官の人事などを担当する吏部侍郎にまだ至った。一番の功績は文学において金言真理を説いたもの。韓愈は文体の改革にも挑み、当時主流だったのは駢文。やがて共鳴した多くの門弟たちが集い、以後20世紀初頭の文学革命に至るまで受け継がれた。依頼品は韓愈が綴った韓昌黎集が全四十巻と遺文一巻が9冊に閉じられている。
中国 宋時代の版本「韓昌黎集」9冊の本人評価額は1億円で、結果は本物かつ状態も良いということで3億円だった。宋版本の字は全て掘り出したもので、宋朝体の元になったものだとされている。
お宝鑑定の依頼を募集している。宛先は106-8007 テレビ東京 開運!なんでも鑑定団係へ、住所や氏名などとともにお宝の写真・エピソードを添えて応募することで可能となる。詳しくはテレビ東京 鑑定団で検索。