- 出演者
- -
オープニング映像。
在日北朝鮮人の夫を持つ大原芳子さん。戦死した夫との間の子供がいたことなどから、夫のみ帰国。当時、北朝鮮は「地上の楽園」とされ9万3340人が帰還。これにまつわる機密文書などから、当時の状況を特集する。
北朝鮮帰国事業に支援者として携わってきた小島さん。当時の資料には、「今は帰国船だが いずれ連絡船になる」という言葉も。かつて、新潟市では在日コリアンが多く居住。その多くが貧困。ほとんどは韓国出身だったが、北朝鮮側が歓迎したことなどあり北朝鮮への帰国事業が盛んに。当時は韓国が混乱していたことなどから、北朝鮮が「希望の持てる国」とされていた。
在日北朝鮮人を妻に持つ大原芳子さん。子供のうち1人は日本人の前夫との間の子供であり、朝鮮人になるべきかどうかを苦悩。夫・劉さんは南部出身で、来日後は厳しい差別などに遭ってきた経緯から、帰国船が出ると知るとこれに傾倒していくように。当時の日本政府は韓国政府の反発を受けながらも北朝鮮帰国事業を後押し。
1959年、北朝鮮帰国船が往来した新潟港。韓国側の民団はこれに反発したが、船は出港。船内では国際赤十字立ち会いのもと、帰国の最終確認も行われた。在日コリアンを夫に持つ大原さん。その夫と子供もこれに乗って北朝鮮へ。当時、夫婦ともに「いつか会える」という思いだったそう。
在日コリアンを北朝鮮に送り返す帰国事業。これにより夫と子供が北朝鮮へ渡った大原芳子さん。政治に翻弄される大原さんの様子は当時の小説にも登場。息子の声が入ったテープを聞いて涙していた、との証言も。後に大原さんも北朝鮮へ。日本人前夫との間の子供・真子さんも見送りに来ていたという。
国の帰還事業により夫と子供が北朝鮮へ渡った大原さん。後に大原さん自身も北朝鮮へ。当時は北朝鮮が「地上の楽園」として宣伝されていたが、実際にはそうではなかったと当時を知る人は証言。人はやせ細っていて、町にも活気が見られなかったという。帰国者からの日本への手紙は検閲されており、不平不満や国の批判はタブーだった。マスコミの論調も帰国を後押しするものだったという。80年代には北朝鮮の実情が広く知られるようになり、84年7月に事業が終了。1990年、関係者のもとに「大原さんは亡くなった」という手紙が。
北朝鮮帰国事業が終了したあとの1997年、現地に渡った日本人15人が一時帰国。2019年には事業60年の追悼式典も行われ、命がけで脱北した人たちが「みんな騙された」「一生懸命働いても自分さえも養えない」などと実情を証言。当時の北朝鮮は「地上の楽園」と宣伝されていた。拉致被害者の帰国にも目処が立っていない状況。去年、東京高等裁判所では北朝鮮政府に損害賠償を求めた4人の脱北者に対して、北朝鮮が過酷な生活を余儀なくさせたことなどを認める判決がくだされた。