- 出演者
- 長谷川史佳 ジョナゴールド
1945年7月の青森空襲を描いた版画。その隣にあるのが、いつでも自決できるようにと、青酸カリを入れていた毛糸の袋。そして、ある飛行兵が特効へ出撃する友人へ向けて詠んだ別れの和歌。太平洋戦争の終戦からことしで79年。戦争体験を語れる人も、高齢化とともに年々少なくなっている。モノからたどる私の戦争を伝える。88歳で亡くなった男性の証言がある。
88歳で亡くなった男性の証言がある。青森平和観音像。青森が空襲にあった7月28日。毎年ここで供養が行われている。観音像の近くで暮らしてきた鳴海廣さん。9歳のとき空襲を経験した。1945年、アメリカ軍による日本本土への空襲が、本格化。地方へと拡大。青函連絡船も攻撃された。鳴海さんの母がビラを持ちかえってきた。空襲の予告だった。ビラは憲兵隊や警察が回収した。B29によって空襲が始まった。8万3000本の焼夷弾が降り注いだ。1万5000戸が焼失、犠牲者1000人以上となった。青森市の中心部には遺体が連なった。観音像は異例のために建てられた。1948年に完成した。
青森市空襲のことは学んできたが、想像できないことがたくさんあることに気づいたという出演者。青森空襲を経験した平井さん。青森空襲を描いた版画。B29から焼夷弾が次々に落とされたという。火の海となった街が描かれている。平井さんは防空壕に逃げたという。青森空襲は1000人以上の被害者となった。市民は街の消火活動にあたらなければいけないという法律があった。疎開していたが、消火活動にあたらなければ配給をしないということで、平井さんは青森市に戻ってきたという。青森平和観音像は市民がお金を出し合った作られた。ある飛行兵の運命を、彼が残した和歌から読み解く。
ある飛行兵が残した和歌がある。満州のある飛行兵の谷藤徹夫さんが、特攻に際し詠んだ詩だ。のちに満州で戦死した。谷藤さんは1943年、陸軍飛行学校へ入学。満州に配属。飛行教官となった。訓練に励む日々を送っていた。日本軍は劣勢となる。アメリカ軍に太刀打ちできなくなった。日本軍は、特攻作戦を実施。満州から南方に出撃した。谷藤さんは仲間を見送った。1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻した。8月15日に日本が降伏。大本営から命令がくだされた。ソ連軍に武器や飛行機を明け渡すという。捕虜として生きることを意味する。谷藤徹夫さんは、妻とともに、飛行機でソ連軍戦車隊に突入したという。敵の戦車に特攻した。箕輪三郎元大尉は、谷藤さんから見てみぬふりをしていてくださいと言われたとのこと。
小さな毛糸の袋。91歳の天内みどりさんは、戦争を語り継いでいる。袋には青酸カリを入れていたという。十和田市には軍馬補充部があった。天内さんは、三本木で生まれた。小学三年生の頃、母と妹と海を渡った。クラスの友達が、編んでくれた袋。ソ連軍が満州へ侵攻。他の家族と朝鮮半島へ避難。日本の植民地だった朝鮮半島。人々は天皇へ忠誠を誓い、日本人風の氏名を名乗ることが強制された。8月15日に日本が降伏。天内さんたちは、朝鮮半島の宣川の日本人学校へ身を寄せた。関東軍の兵士から小さな包みを渡された。青酸カリだった。集団自決をするためだという。天内さんは、不思議ではなかった。学校には解放された朝鮮人たちが竹槍や鎌を持って押し寄せた。集団自決は見送られた。青酸カリは飲まずに済んだ。天内さんは学校の裏で、衝撃的な光景を見た。女性が棒に吊るされていたという。38度線より北には、ソ連軍が進駐した。ソ連軍に連れて行かれる女性たちを何度も目にしたという。いつでも死ねると青酸カリを大事に持っていたという。1年後、38度線を越え、青酸カリを捨てたという。天内さんは今も、戦争を伝えている。
責任と覚悟を持って耳を傾けないといけない話だと出演者がいう。毛糸の袋は今生きていることの証となっているという天内さん。天内さんの戦争体験は、NHKのホームページ内で公開している。平井さんは、青森は一夜にして焼け野原になったことを知っておいてほしいという。
新プロジェクトX~挑戦者たち~の番組宣伝。
突撃!カネオくんの番組宣伝。
土曜ドラマ Shrink~精神科医ヨワイ~の番組宣伝。
ニュース7の番組宣伝。
「映像の世紀 バタフライエフェクト」の番組宣伝。
「うたコン」の番組宣伝。
MLB2024の番組宣伝。
おいち不思議がたりの番組宣伝。