2024年8月19日放送 0:55 - 1:25 日本テレビ

NNNドキュメント’24「学生たちの戦争 学徒出陣 ペンを銃にかえられて」
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オープニング

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学生たちの戦争 学徒出陣 ペンを銃にかえられて

国立競技場の敷地内に記念碑が建っている。この地で大規模な走行会が行われた。「学徒出陣」は徴兵が決まった大学生らの走行会が全国で行われ明治神宮外苑競技場では約2万5000 人が参加した。徴兵を猶予されてきた学生たちが国のために戦うことを強いられた。

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国立競技場新宿区(東京)明治神宮外苑競技場東條英機
学生たちの戦争 学徒出陣 ペンを銃にかえられて

九州大学の歴史を伝える展示室の一画に太平洋戦争中に徴兵された学生たちの写真や日記がある。1943年10月19日、九州大学でも出征する学生たちを祝う走行会が行われた。その後、筥崎宮へ必勝祈願した。さらに亀山上皇の銅像に向かい万歳三唱した。走行会から2ヶ月後、1943年12月に九州帝国大学から法文学部・農学部などの学生691人が出征した。全国から約10万人が出征したといわれている。父が京都帝国大学から出征した秀村さん。遺品整理した時に日記を発見した。そこには大学生らが出征せざる負えない状況、心情を克明に記されていた。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦。翌年、秀村さんの父・秀村選三さんは京都帝国大学に進学した。しかし戦局は悪化の一途をたどり、日本は深刻な兵員不足に陥る。そこで白羽の矢が建てられたのは徴兵を猶予されていた大学生たち。高等教育機関への進学率は約3%。大学生らは国の将来を担うエリートだった。学生ではない同世代の若者はすでに戦っている。選三さんは後ろめたさを感じていた。1943年9月、理工系・医学系などを除く大学生らの徴兵猶予の停止を決定。出征が決まった選三さんは心揺れ動きながらも決意を固めていく。1943年11月20日、京都帝国大学の走行会に参加した。海軍に配属される直前には自分に言い聞かせるように「生か死かとまどふときは死を選べ」などと綴っている。必死の覚悟で出征した学徒は他にもいる。黒木龍三さんの父は三郎さんは九州帝国大学の走行会で学生の代表として答辞を読み上げた。答辞の内容は検閲を受け一部が削除されていた。生前、三郎さんが明かした。削除された学生として当然の願い、答辞の内容は戦意を高揚させる勇ましいものに変えられた。答辞を聞き出征した学徒の中には特攻隊に志願したものもいた。魚雷に乗り込み敵の艦戦に体当りする特攻兵器「回天」。九州帝国大学から出征し戦死したとわかっている学生は少なくとも60人を超える。三郎さんは肺結核となり戦場に赴くことなく生き延びた。戦後は法学者や弁護士として活動し戦争放棄を掲げる憲法9条の大切さを訴え続けた。学徒出陣から81年、存命の学徒は100歳前後となっている。

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中楯興九州大学博多区(福岡)周南市(山口)回天記念館国分寺市(東京)太平洋戦争新潟市(新潟)東公園東区(福岡)水井淑夫秀村選三筥崎宮西区(福岡)西日本新聞逗子市(神奈川)黒木三郎

立正大学から出征した三田村凰治さんは特攻機の整備を担当。僧侶として特攻隊員らの慰霊を続けてきた。東京帝国大学から出征した町田保さん。陸軍の幹部を育てる学校へ送られた。大学で勉強するはずだったドイツ語の教科書は持ち込めなかった。終戦は日本軍が進駐していたタイで知った。安堵する一方でよぎるのは死んでいった仲間たちのこと、祖国が起こした過ち。

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柳井市(山口)逗子市(神奈川)

日記を残した秀村選三さん。海軍の突撃部隊に配属されるも出撃することなく終戦。戦後は大学教授になった。「勇ましいことを言う人間は戦争を知らない」とよく話していた。2008年、元学徒兵への聞き取り調査が行われた。語っていたのは国のために命をかける意味を必死で見出そうとしていた若き日の思い。戦後も日記を書き続けた選三さん。そこには公開と戒めが残されていた。戦地へと送り込まれた学生たちが願っていたのは勉強ができる平和。

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九州大学秀村選三
(エンディング)
次回予告

NNNドキュメントの次回予告。

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