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「西区(福岡)」 のテレビ露出情報

九州大学の歴史を伝える展示室の一画に太平洋戦争中に徴兵された学生たちの写真や日記がある。1943年10月19日、九州大学でも出征する学生たちを祝う走行会が行われた。その後、筥崎宮へ必勝祈願した。さらに亀山上皇の銅像に向かい万歳三唱した。走行会から2ヶ月後、1943年12月に九州帝国大学から法文学部・農学部などの学生691人が出征した。全国から約10万人が出征したといわれている。父が京都帝国大学から出征した秀村さん。遺品整理した時に日記を発見した。そこには大学生らが出征せざる負えない状況、心情を克明に記されていた。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦。翌年、秀村さんの父・秀村選三さんは京都帝国大学に進学した。しかし戦局は悪化の一途をたどり、日本は深刻な兵員不足に陥る。そこで白羽の矢が建てられたのは徴兵を猶予されていた大学生たち。高等教育機関への進学率は約3%。大学生らは国の将来を担うエリートだった。学生ではない同世代の若者はすでに戦っている。選三さんは後ろめたさを感じていた。1943年9月、理工系・医学系などを除く大学生らの徴兵猶予の停止を決定。出征が決まった選三さんは心揺れ動きながらも決意を固めていく。1943年11月20日、京都帝国大学の走行会に参加した。海軍に配属される直前には自分に言い聞かせるように「生か死かとまどふときは死を選べ」などと綴っている。必死の覚悟で出征した学徒は他にもいる。黒木龍三さんの父は三郎さんは九州帝国大学の走行会で学生の代表として答辞を読み上げた。答辞の内容は検閲を受け一部が削除されていた。生前、三郎さんが明かした。削除された学生として当然の願い、答辞の内容は戦意を高揚させる勇ましいものに変えられた。答辞を聞き出征した学徒の中には特攻隊に志願したものもいた。魚雷に乗り込み敵の艦戦に体当りする特攻兵器「回天」。九州帝国大学から出征し戦死したとわかっている学生は少なくとも60人を超える。三郎さんは肺結核となり戦場に赴くことなく生き延びた。戦後は法学者や弁護士として活動し戦争放棄を掲げる憲法9条の大切さを訴え続けた。学徒出陣から81年、存命の学徒は100歳前後となっている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年11月18日放送 1:28 - 2:28 TBS
ドキュメンタリー「解放区」巣鴨日記 ~あるBC級戦犯の生涯~
冬至堅太郎は32歳からの10年間をスガモプリズンで過ごした。冬至は戦犯として囚われ、その日々を日記に記していた。冬至堅太郎を父に持つ冬至克也は、父・堅太郎はどの様な気持ちで過ごしていたのか、そして真実を記しておきたいと日記を残したのだなどと告げた。大正時代に創業した文具店「冬至商店」の一人っ子として誕生した堅太郎は東京商科大学(現 一橋大学)に進学し、剣道部[…続きを読む]

2024年11月7日放送 3:45 - 4:30 TBS
TBS NEWS(ニュース)
今年は、鎌倉時代の元寇、文永の役から750年。福岡市の飯盛神社では日本とモンゴル流の流鏑馬が披露された。今年は博多湾も舞台となった文永の役から750年、そして日本とモンゴルの文化交流樹立50周年でもあることから、モンゴル流の流鏑馬も披露された。馬術協会の会長をはじめモンゴルからやってきた4人は元寇の頃の鎧兜を身にまとって参加した。モンゴルでも神事として、相撲[…続きを読む]

2024年10月29日放送 4:55 - 8:00 テレビ朝日
グッド!モーニング朝イチ!スポーツ&エンタ
福岡市西区で新大関・大の里は「1年前の自分と比べると想像していないところにいます」と述べた。大相撲十一月番付発表で大関大の里との名が刻まれた。五月場所、九月場所で幕内優勝。初土俵から昭和以降最速所要9場所で大関に昇進した。

2024年10月28日放送 21:54 - 23:10 テレビ朝日
報道ステーション(スポーツニュース)
新大関・大の里が記者会見で、意気込みを語った。大相撲十一月場所の番付が発表された。

2024年9月19日放送 19:00 - 21:00 フジテレビ
街グルメをマジ探索!かまいまち直売所 売り切れ 最速BEST10
福岡県古賀市の水産加会社カイセイの直売所には午前6時半、開店準備中から行列ができる。カイセイではタコの加工販売を主に行っており、月に1度力媒介を行う。特に人気なのは冷凍ゆでダコで、市販価格の半額以下で販売。その量は一種類数十キロ、総重量160キロにも及ぶ。お客さんは皆、大量に買い込んでいき、中には飲食店を営むお客さんもいる。安さの秘訣は、味は変わらないが、身[…続きを読む]

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