北海道美瑛町で「スゴイ田舎や秘境で暮らす知り合い、いませんか?」と聞き込み。自分で建てたお家っぽくないお家があると教えてもらったので向かうと、シャッターが閉まったガレージのような建物を発見。「CALL BELL」と書かれたベルで呼んでも応答なし。明かりがついており、煙突から煙も出ていたので、しばらく待っているとシャッターが開いた。中から出てきた田村雅彦さん(66歳)に話を聞いて家の中を見せてもらった。真冬は最低気温がマイナス25℃にもなる極寒の山の中で、250kgの熊が罠にかかり、アライグマ、たぬき、うさぎ、鹿、蛇も出るという。人が来ることはないので、ベルを鳴らしても聞こえていなかった。
別日に再び取材。寒さ対策として窓にビニールシートを貼っていた。北海道では二重窓が主流だが、田村さんはお金がないのでビニールシートで代用している。作業が終わると、気温マイナス2℃の中、パンツ一丁で外へ。水で体を洗った。露天風呂を作る構想はあるが、実行できていない。裸になった田村さんの腹筋は6パックだった。マイナス25℃の山奥にやって来た理由を探るため、日常生活に密着した。
田村さんが山菜採り用ナイフを持って山の中へ。鹿の通り道でフンが落ちていた。熊のフンを見たこともあるという。エノキタケを採取した。冷凍保存し、味噌汁に入れて食べるのが健康の秘訣。帰宅するとエノキタケを水につけた。表面についたゴミを取るためだという。午後1時から昼食作り。採れたてのエノキタケがたっぷり入ったキノコ汁でそばを作り、取材スタッフにも振る舞ってくれた。白玉おしるこもごちそうしてくれた。引っ越して来たのは5年前。ガレージしかなく、テントで暮らしながら、廃材でほぼ0円ハウスを建てた。水道はなく、湧き水を引っ張ってきた。凍ってしまうため、1年中流しっ放し。テレビ・湯沸かし器・洗濯機はなし。収入は年金のみで、家賃は1ヵ月2500円。
翌日に訪れると、エノキタケを保存するため、食べれない部分を取り除いて小分けにしていた。さらに食料を確保するため外の畑へ。ジャガイモ・ごぼう・生姜があるはずだったが、自然に任せた結果、収穫はほとんど無かった。午後1時からは山作業。薪ストーブで使う薪を集めた。帰宅すると夕食作り。メニューは畑で採れたバジルとニンニクを使った自家製バジルソースのパスタ、自家製トマトソースのペンネ、茹でたジャガイモ、キノコ汁だった。取材スタッフもごちそうになった。
田村さんはバツイチで東京に孫がいるという。この日はビニールハウス作り。近所の農家にタダでもらったビニールハウスの組み立ては終わったが、風で飛ばないよう固定する必要があるという。石だらけの地面に大きな穴を堀り、杭を入れて固定する。若いスタッフのためにダウンを貸してくれた。
田村さんは旭川市の隣に位置する鷹栖町で2人きょうだいの弟として生まれた。母は会社勤めで家におらず、1歳上の姉・真梨さんが母のような存在だった。1977年に地元の高校を卒業、札幌の印刷関係の会社に就職し、基本給と同じくらいの残業代をもらうほど働いた。1984年に25歳で結婚、2人の子宝に恵まれ、家族のために働く日々だった。31歳の時に姉・真梨さんが急逝。天国の姉の分まで好きな事をして生きていこうと決めた。勤務先の印刷会社では常務だったが、36歳だった1995年に退職。空手を始め、指導者となり、50人以上の生徒たちを教えるまでになった。50歳までに整体・太極拳・ボクシングなども経験したという。
別日に再び取材。寒さ対策として窓にビニールシートを貼っていた。北海道では二重窓が主流だが、田村さんはお金がないのでビニールシートで代用している。作業が終わると、気温マイナス2℃の中、パンツ一丁で外へ。水で体を洗った。露天風呂を作る構想はあるが、実行できていない。裸になった田村さんの腹筋は6パックだった。マイナス25℃の山奥にやって来た理由を探るため、日常生活に密着した。
田村さんが山菜採り用ナイフを持って山の中へ。鹿の通り道でフンが落ちていた。熊のフンを見たこともあるという。エノキタケを採取した。冷凍保存し、味噌汁に入れて食べるのが健康の秘訣。帰宅するとエノキタケを水につけた。表面についたゴミを取るためだという。午後1時から昼食作り。採れたてのエノキタケがたっぷり入ったキノコ汁でそばを作り、取材スタッフにも振る舞ってくれた。白玉おしるこもごちそうしてくれた。引っ越して来たのは5年前。ガレージしかなく、テントで暮らしながら、廃材でほぼ0円ハウスを建てた。水道はなく、湧き水を引っ張ってきた。凍ってしまうため、1年中流しっ放し。テレビ・湯沸かし器・洗濯機はなし。収入は年金のみで、家賃は1ヵ月2500円。
翌日に訪れると、エノキタケを保存するため、食べれない部分を取り除いて小分けにしていた。さらに食料を確保するため外の畑へ。ジャガイモ・ごぼう・生姜があるはずだったが、自然に任せた結果、収穫はほとんど無かった。午後1時からは山作業。薪ストーブで使う薪を集めた。帰宅すると夕食作り。メニューは畑で採れたバジルとニンニクを使った自家製バジルソースのパスタ、自家製トマトソースのペンネ、茹でたジャガイモ、キノコ汁だった。取材スタッフもごちそうになった。
田村さんはバツイチで東京に孫がいるという。この日はビニールハウス作り。近所の農家にタダでもらったビニールハウスの組み立ては終わったが、風で飛ばないよう固定する必要があるという。石だらけの地面に大きな穴を堀り、杭を入れて固定する。若いスタッフのためにダウンを貸してくれた。
田村さんは旭川市の隣に位置する鷹栖町で2人きょうだいの弟として生まれた。母は会社勤めで家におらず、1歳上の姉・真梨さんが母のような存在だった。1977年に地元の高校を卒業、札幌の印刷関係の会社に就職し、基本給と同じくらいの残業代をもらうほど働いた。1984年に25歳で結婚、2人の子宝に恵まれ、家族のために働く日々だった。31歳の時に姉・真梨さんが急逝。天国の姉の分まで好きな事をして生きていこうと決めた。勤務先の印刷会社では常務だったが、36歳だった1995年に退職。空手を始め、指導者となり、50人以上の生徒たちを教えるまでになった。50歳までに整体・太極拳・ボクシングなども経験したという。
