秋の七草は江戸の昔から向島百花園はその名所として知られてきたがそこが野球場になるという話が持ち上がったことがある。東京大空襲で下町一帯が焼け野原となり、向島百花園も全て焼けてしまった。向島百花園をこよなく愛した作家の久保田万太郎はこの焼け跡に胸がいっぱいになったなどと起こしている。全焼した向島百花園をどうするか、終戦後の2年後にはその後の議論で野球場にすると話が持ち上がった。そんな議論の最中救いとなったのは百花園で開かれた宴。月見の会を行ったが全てを失っても、ささやかな庶民を守り続けようと月に願った。百花園は草花だけでなく江戸っ子に連綿と受け継がれてきた心の聖地でもあった。復旧工事が始まったのは昭和23年のことで、指針となったのは四季ごとに植える花を記した佐原鞠塢の群芳暦だった。200年以上前の姿を蘇らせるために。各地から集められた草花の苗を植え、再び池を掘って園路を巡らせそして、昭和24年に開園を迎えることができた。今も春になると20種の梅の木が色とりどりの花を咲かせるように。