- 出演者
- -
今回は向島百花園を山崎怜奈がたどる。
オープニング映像。
隅田川には南千住と向島を結ぶ、白鬚橋にやってきたのは芸能界きっての歴女の山崎怜奈。10分ほどあるけば向島百花園がある。扁額の書は蜀山人大田南畝。大窪詩仏の漢詩は春夏秋冬花は絶えることなしという意味。今日の作品の向島百花園は、野球場のグラウンドほどの3000坪の広さ。歩いて回るだけで20分で一周できる。ハギやハスなど600種類の花が見られる。
向島百花園にはオミナエシという花が咲いている。秋の七草の一つで、江戸時代からこの庭に咲いていた。またナンバンギセルというポルトガルの南蛮にキセル、パイプの形に似ている花を紹介。古くは万葉集で思い草の名で呼ばれていた。すすきなどに寄生する一年草だという。園内にはこうした万葉集に登場するような草花が植えられている。
東京には有名な大名や、旧財閥の庭園がたくさんあるという。贅を尽くした庭や石、銘木を惜しみなく使い、立派な池を設え自然の景観を表した見事な様式美を示す。しかし、向島百花園は、全く違った考えで作られている。
向島百花園を生んだのはご隠居の佐原鞠塢。江戸時代後期の日本橋で骨董商を営んでいたという。庶民の間で茶道ブームが起きると掛け軸に茶道具を高値で売りさばき大儲け。今でいうオークションを開いたがこれが奉行所に咎められてしまう。佐原鞠塢は、向島にあた旗本の空き屋敷を購入し40代の若さで隠居を余儀なくされてしまった。詳細豊かな佐原鞠塢が考えたのが梅屋敷。梅見の客から茶代がとれると考えた。鞠塢は梅の庭を作るためにクラウドファンディングを行ったがそこで立ち上がったの文人たち。酒井抱一、谷文晁 、大田南畝、川上不白がまさに江戸の文化人オールスター。彼らに協力を仰ぎ、仲間や裕福な町人たちに寄付をつのると360本ほどの梅の木が集まった。その返礼が、文人たちの漢詩を編纂した詩集。まさに大江戸クラウドファンディング。開園当初は梅が主体の庭だったがやがて鞠塢と文人たちはクワを持って苗を植えて自分たちの趣味と好みで思い思い庭造りを行った。鞠塢の群芳には草花を植え池を堀り、自由で野趣あふれる庭をと記され、大名庭園の様式美はない。おおらかで素朴で唯一無二の百花園は大評判いなり隅田川の名所として浮世絵に描かれるほどに。御成座敷には今でもお茶会を楽しむことができるという。そのお座敷を設計したのが江戸琳派の天才絵師の酒井抱一。の歴史に詳しい服部勉さんは、百花園は園芸を媒体にした文化サロンで花は絵師にとっては画題にもなったという。
名門大名家の出身ながら、絵師となった酒井抱一は、この庭の美を最も体現した。大作の夏秋草図屏風は重要文化財にもなっている。銀箔を背景に群青の川が流れる。右隻には、夕立にしなだれる夏の青芒に女郎花の花が。幾重にも弧を描く葉に隠れて白い百合の花が。美しいものは葉陰の奥にある。左隻には、ざわめく秋のススキに野葡萄がからみあい、折からの強い風に藤袴の花が絶えてうつむく。葛の葉が、風に乱れツルが踊る。移ろう季節のもののあわれ。
向島百花園にはジュリエットの銀杏木から少し歩くと萩のトンネルが。盛りの頃になれば、美しい光景が広がる。山崎は園内の茶亭で注文したのは抹茶。ゴーヤと人参、大根の砂糖漬けも登場。山崎はお茶の味に美味しいと答えた。茶亭さはらの店主は佐原鞠塢から数えて8代目。向島百花園の歴史を見てきたが最大のピンチが。
秋の七草は江戸の昔から向島百花園はその名所として知られてきたがそこが野球場になるという話が持ち上がったことがある。東京大空襲で下町一帯が焼け野原となり、向島百花園も全て焼けてしまった。向島百花園をこよなく愛した作家の久保田万太郎はこの焼け跡に胸がいっぱいになったなどと起こしている。全焼した向島百花園をどうするか、終戦後の2年後にはその後の議論で野球場にすると話が持ち上がった。そんな議論の最中救いとなったのは百花園で開かれた宴。月見の会を行ったが全てを失っても、ささやかな庶民を守り続けようと月に願った。百花園は草花だけでなく江戸っ子に連綿と受け継がれてきた心の聖地でもあった。復旧工事が始まったのは昭和23年のことで、指針となったのは四季ごとに植える花を記した佐原鞠塢の群芳暦だった。200年以上前の姿を蘇らせるために。各地から集められた草花の苗を植え、再び池を掘って園路を巡らせそして、昭和24年に開園を迎えることができた。今も春になると20種の梅の木が色とりどりの花を咲かせるように。
新美の巨人たちの次回予告。
「スポーツ リアライブ」の番組宣伝。