立ち上げ当時、坂口のチームに配属されたのは若手ばかり。その中にアルバイトの新人としてゲームデザインを担当した石井浩一がいた。ファイナルファンタジーの設定や世界観などといった物語の根幹にかかわるデザインを担当する。ゲーム開発の経験がほとんどなかった石井だったが、持ち前の負けん気で坂口にアイディアを提供。元々海外の神話をもとにしたファンタジーが好きだった石井はドラクエとの差別化を図ることを前提に世界観を構築。物語の中で使われる魔法は精霊魔法にし、火、土、風、水の4つのエレメントを登場させた。初代ファイナルファンタジーの舞台は4つのエレメントの調和が崩れた世界。プレイヤーは4人の光の戦士をあやつり、クリスタルの力を取り戻す冒険の旅に出る。石井は自由に発想をめぐらせゲームのアイディアを次々に発案したが実現の難しさに直面。1980年代当時、ゲームの開発には今では考えられないほど厳しい制約があった。開発当時ゲームのデータ容量に使えたのはわずか250KB。限られた容量の中で面白いゲームを作ることが求められた。
ファイナルファンタジー第1作目のメインプログラマーナーシ・ジベリはファンの間で伝説視されている人物。1980年代、すでにアメリカでゲーム開発の実績を持っていたナーシだったが83年、粗悪ゲームの過剰生産により北米ビデオゲーム市場が崩壊。その影響で自分の会社をたたみ、新たな活躍の場を求めているところに坂口の会社の社長が誘いをかけた。アメリカでは主にアクションゲームの開発をしていたナーシはファイナルファンタジーで初めてRPGの開発に参入。坂口たちの発想をアメリカで培った技術を活かし即座に体現してみせることがやりがいだったという。
坂口たちの次なる課題はゲームの顔となるビジュアルイメージだった。目標にするドラゴンクエストは人気漫画家の鳥山明が担当。おそろしくも愛嬌のあるモンスターは子供たちの心を鷲掴みにしていた。ゲームデザインを担当した石井とディレクターの坂口はアーティストの天野喜孝のイラストがイメージに合致すると考えた。元々アニメーターだった天野は当時独立したばかり。その独創的な画風が注目を集めていた。周囲の反対にあったが、坂口らの熱意に動かされ、依頼を承諾。幻想的な天野の絵をどうゲームの世界に落とし込むのか。ピクセルアートを担当したのは当時入社2年目の渋谷員子。渋谷は限られたデータ容量の中で意図的な省略によって本質を残すという方法をとった。また、天野に依頼していないモンスターは自分でデザインを担当。天野の画風を真似、研究することでピクセルアートへの落とし込みもスムーズになっていったという。開発が終盤を迎えていたある日、ドラクエの最新作が同日に発売となることが判明した。
ファイナルファンタジー第1作目のメインプログラマーナーシ・ジベリはファンの間で伝説視されている人物。1980年代、すでにアメリカでゲーム開発の実績を持っていたナーシだったが83年、粗悪ゲームの過剰生産により北米ビデオゲーム市場が崩壊。その影響で自分の会社をたたみ、新たな活躍の場を求めているところに坂口の会社の社長が誘いをかけた。アメリカでは主にアクションゲームの開発をしていたナーシはファイナルファンタジーで初めてRPGの開発に参入。坂口たちの発想をアメリカで培った技術を活かし即座に体現してみせることがやりがいだったという。
坂口たちの次なる課題はゲームの顔となるビジュアルイメージだった。目標にするドラゴンクエストは人気漫画家の鳥山明が担当。おそろしくも愛嬌のあるモンスターは子供たちの心を鷲掴みにしていた。ゲームデザインを担当した石井とディレクターの坂口はアーティストの天野喜孝のイラストがイメージに合致すると考えた。元々アニメーターだった天野は当時独立したばかり。その独創的な画風が注目を集めていた。周囲の反対にあったが、坂口らの熱意に動かされ、依頼を承諾。幻想的な天野の絵をどうゲームの世界に落とし込むのか。ピクセルアートを担当したのは当時入社2年目の渋谷員子。渋谷は限られたデータ容量の中で意図的な省略によって本質を残すという方法をとった。また、天野に依頼していないモンスターは自分でデザインを担当。天野の画風を真似、研究することでピクセルアートへの落とし込みもスムーズになっていったという。開発が終盤を迎えていたある日、ドラクエの最新作が同日に発売となることが判明した。