美輪明宏さんは昭和10年長崎県で生まれ昭和20年8月9日長崎に原爆が落とされた。当時について「宿題の夏休みの絵を描いていてそしたらいきなりマグネシウムを1万個くらいたいたようなすごい光がピカッと光り世の中の音が全部止まった」などと話した。戦後今まで悪だった民主主義・自由主義が善になって善と言われていた軍国主義・封建主義が悪になった。それから自分の目で見て触って考えてそれしか信じるのはやめようと思った。
美輪明宏は16歳で長崎から上京し男女の枠を越えたファッションが注目を集め22歳でレコードデビューした。その後恋愛の対象は男性と公表した。しかし、批判や差別が待ち受け厳しい立場に落ちていった。世間の常識や権威を越えた価値あるものが愛で、エディット・ピアフが歌う愛の讃歌に貫かれた無償の愛の精神が美輪明宏を捉えた。古谷アナが無償の愛を実践するのは難しいのではと聞くと美輪明宏は「ほほえみは人生の通行手形」と答えた。
美輪明宏は16歳で長崎から上京し男女の枠を越えたファッションが注目を集め22歳でレコードデビューした。その後恋愛の対象は男性と公表した。しかし、批判や差別が待ち受け厳しい立場に落ちていった。世間の常識や権威を越えた価値あるものが愛で、エディット・ピアフが歌う愛の讃歌に貫かれた無償の愛の精神が美輪明宏を捉えた。古谷アナが無償の愛を実践するのは難しいのではと聞くと美輪明宏は「ほほえみは人生の通行手形」と答えた。