今回の気になる家に案内してくれるのは東京・中野の岩崎さん夫婦。夫の凪さんが見つけたのがガラス張りのお宅。出迎えたのはオーナーの片山寿夫さんで建築会社の代表を務めている。2年前にこの家を購入したという。中を拝見するとフランスの田舎の建物をイメージして作られた部屋が増築されている。階段は1人ずつしか乗れない。デザインしたのは天才肌の画家で、90年前にその人達が作ったアトリエとなっている。このアトリエが建てられたのは1934年で、建築当時から改修を繰り返しているが、建物はそのまま残っている。作ったのは大正から昭和にかけて活躍した画家の三岸好太郎と妻の節子。銀座で画廊を経営する三岸由紀子さんは2人の孫の妻にあたる。
三岸好太郎は画風を次々と変える異彩の画家で、新しい時代の担い手として大きな注目を集めていた。節子は3人の育児に加えて家事にも追われ、絵も満足に書けず家計は火の車だったという。好太郎はアトリエを新築する計画を思いつく。設計を依頼したのは友人の山脇巌。ドイツの芸術学校バウハウスでモダニズム建築を学んだ建築家だった。建築費用の見積もりは1万5000円で、節子にとっては考えられない金額だった。1934年5月は工事が始まるが、好太郎は持病の胃潰瘍が悪化して急死した。節子は亡くなった好太郎に代わってアトリエを完成させると、この家に暮らし画家として一家を支えていった。
由紀子さんはこのアトリエで一時暮らしたことがあるという。節子の孫で去年亡くなった太郎さんと結婚したばかりの半年間、アトリエの2階である和室で生活していた。由紀子さんは「夏は暑い、冬は寒いで住心地は最悪でした」などと話した。家の調査にあたった建築家の樋口智久さんは「バウハウスの校舎を思わせる攻めた建物でそのスタイルを輸入しようとした。」などと話した。バウハウスが目指したモダニズム建築は鉄骨で造ることによって実現した建築様式だった。特に無理が生じたのが大きなガラス窓。窓枠も昔は細い木材で出来ていた。鬼気迫るようにキャンバスに向かっていた節子はこの時期、幾つもの作品を精力的に製作。鮮やかな色彩と瑞々しい生命力に溢れる節子の絵は高く評価され、画家としての地位を確固たるものとしていた。入ったと所にある部屋はその頃に節子が増築したもので、来客用に応接室が必要になった。好太郎が好んだモダンデザインではなく、節子の好みでフランスの田舎風に作られた。
1968年、節子は画家としての新しい境地を求めてフランスへと移住する。アトリエの管理は長女の一家に託された。アトリエはあまりに住みにくいので、一家は同じ敷地にマンションを建設。1999年には節子が亡くなる。長らく空き家となっていたアトリエを壊そうと思っていた孫の愛子さんにとって転機となった人達が建築家の伊郷吉信さんと十川百合子さん。2010年、中野区から依頼された古い建物の調査でアトリエを訪れた。2人はすぐに保存すべきだと思ったが、その後も調査といって2人は何度もアトリエにやってきた。最初に警戒していた愛子さんも次第に打ち解けていったという。愛子さんは2人と共に各地の建物見学会に参加したり、愛好家や専門家とも話をするようになった。
愛子さんがマンションを売りに出すと名乗り出た人が現在のオーナー・片山さんだった。マンションの内見に訪れた片山さんは同じ敷地にあるアトリエに一目惚れしたという。片山さんの会社では古い建物の価値を生かして再生する事業を進めていた。アトリエの保存プロジェクトで設計を担当したのが建築家の樋口さん。改修計画では節子が増築した応接室は外し、好太郎がデザインした建築当時の形に戻す予定。素材も木材を採用する。改修を前に行われた見学会では、アトリエの設計者・山脇巌さんの孫も参加した。
三岸好太郎は画風を次々と変える異彩の画家で、新しい時代の担い手として大きな注目を集めていた。節子は3人の育児に加えて家事にも追われ、絵も満足に書けず家計は火の車だったという。好太郎はアトリエを新築する計画を思いつく。設計を依頼したのは友人の山脇巌。ドイツの芸術学校バウハウスでモダニズム建築を学んだ建築家だった。建築費用の見積もりは1万5000円で、節子にとっては考えられない金額だった。1934年5月は工事が始まるが、好太郎は持病の胃潰瘍が悪化して急死した。節子は亡くなった好太郎に代わってアトリエを完成させると、この家に暮らし画家として一家を支えていった。
由紀子さんはこのアトリエで一時暮らしたことがあるという。節子の孫で去年亡くなった太郎さんと結婚したばかりの半年間、アトリエの2階である和室で生活していた。由紀子さんは「夏は暑い、冬は寒いで住心地は最悪でした」などと話した。家の調査にあたった建築家の樋口智久さんは「バウハウスの校舎を思わせる攻めた建物でそのスタイルを輸入しようとした。」などと話した。バウハウスが目指したモダニズム建築は鉄骨で造ることによって実現した建築様式だった。特に無理が生じたのが大きなガラス窓。窓枠も昔は細い木材で出来ていた。鬼気迫るようにキャンバスに向かっていた節子はこの時期、幾つもの作品を精力的に製作。鮮やかな色彩と瑞々しい生命力に溢れる節子の絵は高く評価され、画家としての地位を確固たるものとしていた。入ったと所にある部屋はその頃に節子が増築したもので、来客用に応接室が必要になった。好太郎が好んだモダンデザインではなく、節子の好みでフランスの田舎風に作られた。
1968年、節子は画家としての新しい境地を求めてフランスへと移住する。アトリエの管理は長女の一家に託された。アトリエはあまりに住みにくいので、一家は同じ敷地にマンションを建設。1999年には節子が亡くなる。長らく空き家となっていたアトリエを壊そうと思っていた孫の愛子さんにとって転機となった人達が建築家の伊郷吉信さんと十川百合子さん。2010年、中野区から依頼された古い建物の調査でアトリエを訪れた。2人はすぐに保存すべきだと思ったが、その後も調査といって2人は何度もアトリエにやってきた。最初に警戒していた愛子さんも次第に打ち解けていったという。愛子さんは2人と共に各地の建物見学会に参加したり、愛好家や専門家とも話をするようになった。
愛子さんがマンションを売りに出すと名乗り出た人が現在のオーナー・片山さんだった。マンションの内見に訪れた片山さんは同じ敷地にあるアトリエに一目惚れしたという。片山さんの会社では古い建物の価値を生かして再生する事業を進めていた。アトリエの保存プロジェクトで設計を担当したのが建築家の樋口さん。改修計画では節子が増築した応接室は外し、好太郎がデザインした建築当時の形に戻す予定。素材も木材を採用する。改修を前に行われた見学会では、アトリエの設計者・山脇巌さんの孫も参加した。
