下村観山は明治6年に生まれ、紀州徳川家に仕えた能楽師の家系に生まれた。本名は下村晴三郎。9歳で日本絵画の本流狩野派の門を叩くと、北心斎東秀の号を授けられた。鷹之図は 13歳で狩野派の橋本雅邦に指示した時の作品。東洋美術史家のアーネスト・フェノロサは実に後世恐るべしと述べている。16歳で東京美術学校に入学し、校長の岡倉天心の薫陶を受けて伝統的日本絵画の技量を高めていく。卒業制作の熊野観花は都を行き交う大勢の人々をユーモアを交えて描いている。古典的な題材ながら背景を薄くし、遠近感を意識した構図が見事。卒業後母校の助教授についたが、校長を辞任した岡倉天心らと共に日本美術院を設立。闍維は観山25歳の作品。東洋的なモチーフで、ルネサンス期の宗教画のような構図と色彩で描いている。また下村観山本人もその絵画の中に描かれている。
