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オープニング映像。
東京国立近代美術館では現在、下村観山展が行われている。今日の作品は重要文化財の下村観山の弱法師。屏風絵で、梅の木の陰で手を合わせる男の姿があり、祈っているのか、満足しているのか。また、真っ赤な太陽が描かれている。弱法師とは室町時代の能の演目で、数奇な運命から家をおわれ、流浪の身となった俊徳丸が梅の花が咲く大阪・四天王寺で彼岸の落日に出会う物語。ねじるように伸びた枝に可憐な梅の花。ところどころ衣服に破れがあり、やや前かがみになった俊徳丸の表情は柔らかで繊細なまつげが特徴。唇の間から恍惚が望む。髪の毛1本1本まで丁寧にしなやかに描かれる。見えない視線の先には、赤い太陽。
下村観山は明治6年に生まれ、紀州徳川家に仕えた能楽師の家系に生まれた。本名は下村晴三郎。9歳で日本絵画の本流狩野派の門を叩くと、北心斎東秀の号を授けられた。鷹之図は 13歳で狩野派の橋本雅邦に指示した時の作品。東洋美術史家のアーネスト・フェノロサは実に後世恐るべしと述べている。16歳で東京美術学校に入学し、校長の岡倉天心の薫陶を受けて伝統的日本絵画の技量を高めていく。卒業制作の熊野観花は都を行き交う大勢の人々をユーモアを交えて描いている。古典的な題材ながら背景を薄くし、遠近感を意識した構図が見事。卒業後母校の助教授についたが、校長を辞任した岡倉天心らと共に日本美術院を設立。闍維は観山25歳の作品。東洋的なモチーフで、ルネサンス期の宗教画のような構図と色彩で描いている。また下村観山本人もその絵画の中に描かれている。
下村観山は日本画家初の国賓留学をし、イギリス・ロンドンを訪れた。現地でラファエロの作品を模写している。日本絵画のごとく、絹本に水彩絵の具を用いたのは、西洋画と比較研究するため。生涯を通じて多くを語らなかった下村観山だったがロンドンから橋本雅邦にあてた書簡が残されている。感動と喜びに浸りながらも、あくまで謙虚に実直にその技法を吸収していった。
ロンドンから返ってきた観山の2年後の作品は木の間の秋。まっすぐに並んだ木々の繰り返し、秋草の表現には写実的な描写とともに装飾性がみられる。展覧会では単眼鏡を使って作品を見ることができる。唐茄子畑は左右で全く構図が異なり、シュッと伸びた茎があり生き生きとした葉と花を添えている。飛び去るカラスを画面の端にあり、野菜や猫などが描かれる。その緻密さはカボチャの表面は、ツルのトゲトゲまで描かれるなどしている。地面の猫は飛ぶカラスを見ている。
横浜にある国指定名勝の三渓園の広さは5万3000坪。実業家の原三溪によって作られ、明治39年には一般解放された。下村観山にとって大切な場所で、原三溪は芸術や文化に造形が深く明治末期には画家たちの支援を始めた。鶴翔閣は画家たちが集い、滞在し絵の制作や文化サロンとしての役割も果たしていた。
原三溪に気に入られた下村観山は原の招きで横浜に居を構え、終の棲家とした。そして三渓園で梅の木と運命の出会いをする。臥竜梅は龍が伏せているような梅で、観山はこの臥竜梅をみて弱法師を発想した。幼い頃から親しんできた上方の能の演目に題材を取り、伝統的日本絵画の技法と、西洋画の技法を融合させた新しい日本画の金字塔。しかし絵の中には能の弱法師には登場しないモチーフが描かれているという。それが卒塔婆。お釈迦様が描かれているが、それがこの作品の意味をなしているという。下村観山は極楽浄土を暗示するアレンジを加えている。俊徳丸が寄る辺なきその人生に盲目の中で初めてみた極楽の夢。その至福の瞬間を描いている。開催中の下村観山展では、現在屏風絵の弱法師に変えて能の舞台となった四天王寺所蔵作品を展示している。
下村観山の57歳の作品の竹の子。病気療養中に見舞いの品としてもらった竹の子を描いた。背景のない簡素な線描と気品ある色彩。精緻な筆使いは衰えを知らず。しかし、完成から8日後に逝去した。
新美の巨人たちの次回予告。
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