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「中央大学」 のテレビ露出情報

2024年4月、福岡・八女市。遺族を調べていたとき特攻の時代を覆った熱気のようなものを感じる遺品に出会う。戦死したのはこの家の四男・河島鉄蔵さん。14歳で志願し少年飛行兵となり18歳7か月で戦死した。鉄蔵さんは戦死を堺に手の届かない存在となった。当時の婦人向け雑誌のグラビアには特攻隊員の特集が組まれていた。「大君之楯」の和紙の一枚一枚に鉄蔵さんに捧げる和歌や俳句、詩が記されていた。書いたのは国民学校の教師たちだった。その数、700人異常。18歳の若さで国に命を捧げたと河島さんを称えていた。追悼の言葉を贈ったのは河島さんの母校だけではなく、当時の八女郡全域の50の国民学校に及んでいた。綴りの中で特に目を引く言葉が教育界の特攻隊員と呼ぶ20代前半の教師の言葉。自分は歯車であるとまで書いた教師。遺品が教えてくれたのは日本の隅々で戦争を支えた国民抜きには特攻は語れないということだった。
特攻が始まったのは1944年10月、フィリピンでのことだった。現地の航空隊の司令官・大西瀧治郎中将は爆弾を抱えた零戦で敵の空母に体当たりするよう搭乗員に命令を下した。太平洋戦争3年目の年、アメリカの圧倒的な航空戦力を前に日本は敗退を重ねていた。7月には本土防衛の要としていたサイパンが陥落。戦闘の巻き添えとなり民間人1万人が犠牲となり、この島から大型爆撃機による本土への空襲が始まろうとしていた。10月、日本が決戦場としていたフィリピンにアメリカが押し寄せた。体当たりで空母の飛行甲板を破壊し航空戦略を封じたうえで決戦に打って出る。戦局挽回までの一時的な作戦のはずだった。1944年10月25日、22人の隊員がフィリピンの基地を出撃した。彼らの最期はどのようなものだったのか。航空戦史研究家・織田祐輔さんは米軍が撮影した映像と日米の報告書を突き合わせ、いつ・誰の最期を捉えたものなのか特定している。その中にこれまでないとされてきた10月25日、最初の体当たりの映像が見つかった。この体当たりを行ったのは加藤豊文さんか宮川正さん。加藤豊文さんは徳島県出身の20歳3か月。高知県出身の宮川正さんは18歳1か月だった。そしてもう一人、映像が見つかった隊員・廣田幸宜さんは20歳4か月。廣田さんは最初の特攻から5日後の1944年10月30日に6機からなる特攻隊の二番機として出撃し、午後2時半過ぎに一番機に続いて突撃を開始した。今回、見つかった鬼気迫る映像。3人の経歴を調べると共通点がある。彼らは飛行予科練習生だった。予科練は主に10代の少年を飛行兵に鍛える養成機関。彼らは軍人として人生を切り開こうと志願してきた。国内各地の航空隊で飛行訓練を積み、やがて戦闘機や爆撃機の搭乗員として太平洋の戦場へと送り込まれた。廣田さんが戦死した10月30日まで最初の一週間の戦死者は76人。そのうち46人を20歳以下の予科練出身者が占めている。廣田さんたちの出撃から突入まで護衛機から間近で見ていた人から話を聞いたことがある。ベテラン搭乗員の角田和男さん。当時26歳。日本軍の実情、アメリカとの戦力差を肌身で感じていた。廣田さんが戦死する半年前、内地から最前線に出る直前に撮影された写真。彼らの多くが戦況が悪化するなか、訓練期間を短縮されて戦場へ送り出され命を落としていった。廣田さんとともに戦い、特攻作戦の開始を告げられたときも一緒だった井上武さん。ある晩、司令部の薄暗い部屋に集められた。
その頃、東京では特攻に踏み切ったことを海軍トップの軍令部総長が昭和天皇に上奏していた。それに対する昭和天皇の言葉が残されている。特攻を否定しない言葉の背景には当時、天皇や軍首脳が抱いていた一撃講和という考えがあった。小磯國昭首相が思惑について戦後、語り残している。この負け続け連合国が求める無条件降伏に追い込まれれば天皇中心の国家体制が危うかった。しかし軍内部には和平を拒み徹底抗戦を唱える強硬派が存在していた。連合国が戦争継続をためらうような被害を与え有利な講和を引き出すとともに強硬派を納得させる。その一撃講和を有効な手段とされたのが特攻だった。国家の思惑を背負わされ特攻の先陣をきった若者たち。彼らの素顔を知るため見ておきたい資料がある。海上自衛隊第1術科学校の資料館に戦後、家族から寄贈された特攻隊員の遺品が収められている。都道府県別にまとめられた特攻隊員のファイル。全戦死者の半数近く1827人分に及ぶ。軍の厳しい検閲のなか、入隊してから戦死するまで家族に多くの言葉を残している。その中に逃げる空母に体当たりした廣田幸宜さんの遺品が見つかった。急報と書かれた手紙、母宛てに手作りのぼた餅を送ってほしいと絵まで付けている。4人兄弟の長男だった廣田さんは母親のことが大好きなユーモアある青年だったようだ。最後の手紙は特攻が始まる半年前、前線に出るときのもの。
一時的な命令だったはずの特攻は軍の正式な作戦となり継続された。戦死した隊員の故郷は1944年11月末までに248か所に増えていく。そして特攻を後押しする歯車が出始める。マスコミは国を救う自己犠牲の美談として特攻を報じ始めた。靖国隊のニュース映像は全国の映画館で上映され多くの反響を巻き起こした。隊員たちの故郷は沸き立った。香川で農業を営む寺島忠正さんの家には村人たちが石造りの碑を建てて軍神と刻んだ。谷川昌弘さんの遺族には地元の著名な洋画家・小磯良平から肖像画が贈られた。石井一十四さん、両親や妹に戦死の知らせが届いた。映像に映る兄は面影が変わっていた。家族は近所の織物工場から連日、押しかける弔問客の対応に追われていく。靖国隊には挑戦の若者・印在雄さんにいた。植民地の人々を戦争に強力させたい軍の意向で新聞は半島に靖国の神鷲と称えた。この後、終戦まで朝鮮半島から16人が特攻で戦死している。そして福岡・八女郡の河島鉄蔵さんの遺族には地域の教師たちから「大君之楯」が贈られた。言葉を寄せた教師の教え子だった落合巧美さん。当時、国民学校の3年生。みなが特攻精神を持てばアメリカに勝てると教えられた。
国を覆う熱狂をさらに燃え上がらせたものがある。戦争の時代に急速に普及したラジオだ。1944年12月17日のある番組予告。この日の晩、日本放送協会が特攻隊員の遺言を放送するという。遺言は5日前にフィリピンで戦死した護国隊の若者たちが遺したものだった。彼らの自宅には放送に合わせて報道陣が押しかけた。この放送に違和感を抱いた国民もいた。作家の一色次郎だ。だが、後に続けと叫ぶ声の方が大きかった。伊藤忠商事の会長・伊藤忠兵衛は隊員の言葉に感激し放送の5日後、経営する工場の従業員に訓示を行っている。フィリピンで体当たり攻撃が始まって1か月あまり、「一億特攻」という言葉が新聞に登場し、瞬く間に広がり人々が口にするスローガンとなる。特攻と日本社会との関係を研究する一ノ瀬俊也さんは一億特攻が浸透する背景に当時の日本人が捉われていた考えがあったと教えてくれた。1945年8月の終戦の日までに4000近い命が失われていく特攻隊員たち。戦死した日付は戦局の推移と密接に関係している。10月にフィリピンで始まった特攻は12月にピークを迎え終わっていく。1945年1月、アメリカ軍がマニラ付近に上陸し日本軍の航空隊はフィリピンから撤退。特攻ではアメリカの進撃を止めることも一撃講和の糸口を掴むことも出来なかった。それにも関わらず日本は特攻を続けていく。沖縄戦が行われる3月~6月にかけてさらに大きな山が現れる。まずは予科練など少年飛行兵らが担い、続いてエリート士官。海軍兵学校や陸軍士官学校などの出身で率先し命をかけて戦うよう教え込まれていた。そして大学や専門学校など学徒出身者の約1000人。学徒出身者の故郷をみると、それまで人口の割に隊員が少なかった都市部やその周辺に集まっている。彼らが直面した一億特攻とはどのようなものだったのか。
2024年6月、中央大学の学生が戦死した遺族の黒部栄子さんにインタビューを行った。兄・力雄さんは短距離走の有力選手だった。太平洋戦争開戦の翌年に中央大学へ入学。陸上部の主将として競技に打ち込んでいた。その夢が断ち切られる。1943年10月、出陣学徒壮行会。出陣する学徒の中に力雄さんもいた。それまで学生は国の将来に必要な人材として徴兵を猶予されていた。兵力不足が深刻になる中で文化系学生の徴兵猶予は停止された。学徒出陣にはもう一つ狙いがあったとされる。当時の首相・東條英機が記者に語った言葉「学徒の入営はよかったね。何よりもよいことは上下の家庭がこれでまったくひとつになったことだ。精神的にも挙国一致になってきた」。この頃、高等教育を受けられたのは経済的に恵まれた家庭を中心に国民の6%ほど、大多数の国民は徴兵で家族を兵隊にとられ不満が高まっていた。入隊の日、力雄さんの運命が急変していく。2ヶ月後には一緒に入隊した元学徒たちと搭乗員になるための訓練を開始。何とか練習機を操縦になった頃、フィリピンでは特攻が始まっていた。そして1945年4月16日、力雄さんに沖縄への出撃が命じられる。最初の実戦が体当たりだった。
隊員はどのように選ばれたのか。海軍省は主に国内で訓練中の隊員たちに特攻に志願するか一人ひとり意向を調べていたとされる。しかし、実態はこれまで謎だった。今回、真相に迫る重要な資料が見つかる。調査に基づき55の航空隊が海軍省に提出した搭乗員のリスト。2132人分に及んでいた。一番上の欄には志願の程度を表す文字。志願しなかった人はリストに載せられていない。一人ひとりの人物表、搭乗員としての適正や技量について上官のコメントが添えられていた。詳細な家族構成まで。リストを踏まえ海軍省は特攻隊員を選び前線に送り出していたと考えられる。土方敏夫さんは現在の東京理科大学に在学中、海軍に入隊した。夢は数学の教師。結婚を約束した女性もいた。土方さんの部隊では調査は特攻が始まった翌月1944年11月に行われた。熱望・望・否か各自、紙に書き人のいない司令室に置き行く仕組みだった。否と書くのはためらわれ、学徒出身者には士官の待遇が与えられ部下がいた。土方さんは熱望と書いて提出したという。今回、見つかった資料の中に土方さんの航空隊の記録もあった。海軍兵学校を出たエリート士官たちはみな熱望としていた。続いて学徒出身者のページで土方さんのページをみると言葉通り熱望だった。それ以外の大多数は望である。この資料から海軍関係者に取材をしてきた神立尚紀さんは「望って書いている人は否に近い。当時の雰囲気として否と書きづらい。かといって熱望ではないから望と小さい文字で書くっていう人がいた」などと解説した。だが海軍省の線引の基準は熱望か望かではなかった。熱望と書いた土方さんを含む最初の3人は選ばれなかった。一方、あとに続く10人から特攻隊員が選ばれ最前線に送られた。うち8人が望だった。このリストは海軍への入隊後に行われたあらゆる試験を合計した成績順に並んでいるという。 特攻に選ばれなかった3人は約5000人の学徒出身の同期でトップクラスの成績だった。隊員の命を選別し特攻は続けられた。
特攻隊員の護衛の任務に就いていたベテラン搭乗員の角田和男さん。意に反して戦場に送られた元学徒を間近で見ていた。ある日、角田さんの目の前で1人が感情を爆発させた。数日後、その隊員は仲間たちと出撃していった。一千を超える元学徒の故郷。学業に秀で将来を嘱望された若者の死が次々と伝えられた。旧須知町では1945年1月、戦死した隊員に縁ある人々が学校の講堂に集められ盛大な葬儀が行われた。当時16歳だった山本清次さん。戦死した隊員は中学校の先輩で言葉を交わしたこともあった。西村克己さんは現在の京都教育大学から海軍に入り3人乗りの爆撃機の機長として出撃。空母の間近で撃墜され爆弾は海面で炸裂した。人々は街で作詞作曲された歌を葬儀の場で合唱した。敵の軍艦を沈めたと賛美する歌詞。勇ましい歌を作詞したのは学校の教師だった。国語を教えていた細川正典さんは当時、29歳。結核を患い兵隊に行けなかった。
特攻を称えた教師たち。調べていく教育現場に圧力をかけていた組織の存在が浮かび上がる。国民学校に対し特攻隊員の敬称に力を注ぐよう出された通達。送り主は地方事務所。地方事務所は国の指示で各都道府県が作った出先機関。事務所を通じ軍の要望が町村に伝えられた。重要な使命の1つが軍の志願する少年を集めること。地方事務所の資料を発掘し機能を解明してきた木村美幸さん。「模範的であるということが村としてのステータスとなった」などと語った。西村少尉の葬儀で歌を熱唱した山本清次さん。直後、中学の校長に呼び出され友人たちと志願を迫られた。1945年4月1日、予科練に入隊し特攻隊員になるための訓練を始めることになる。すでにこの頃、日本にとって戦況は絶望的だった。沖縄にはアメリカの艦隊が島を取り囲み上陸作戦が行われた。先立ち、大都市は無差別爆撃にさらされた。特攻隊員の故郷も炎に包まれた。一方、焼け跡から目と鼻の先では首脳たちが一撃講和を唱えていた。しかし特攻で戦局を挽回するという国民の希望には陰りも見え始めていた。兄が沖縄で戦死した清水清子さん。出撃直前に連絡を受け、母・姉と飛行場に駆けつけ兄から特攻隊員になったと知らされる。軍は4月だけで1500人以上を特攻に送り出していく。隊員たちの思いに応えようと特攻を後押しする国民。勇ましい言葉を並べ続けるマスコミ。沖縄戦が始まり1ヶ月が経過した1945年5月4日、アメリカ軍の映像にこれまでにない特攻機が現れる。旧式の練習機、速度のでない機体に重い爆弾が装着された。練習機による特攻だけで300を超える命が失われることとなる。日本は一億特攻を叫び続けたまま終戦の日を迎えた。一億特攻を支えた人はどのような戦後を送ったのか。平島節郎さんは追悼文集に節郎さんの父も言葉を寄せていた。父は戦時中、国民学校の校長をしていた。父は長男も志願させていた。海軍兵学校を卒業し爆撃機の機長となった。特攻が始まった直後の1944年10月に戦死。新婚の妻が残された。出撃前、妻に遺した遺書がある。自決した妻も言葉を残していた。息子とその妻、そして戦地に送り出した教え子の多くを亡くした父。戦後は慣れない農業をして生計をたてた。教職に戻ることはなかった。一億特攻への道、そこには私達と変わらない人々が生きていた。もしまた同じような道が生まれた時、自分ならどんな選択をするのか。隊員たちの故郷はそう問いかけているようだった。

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