戦況が悪化すると個人の考えは全て排除され戦争勝利のかけ声のもと、日本は狂信的に戦争遂行の道をひた走る。死ぬための教育をいとわない軍国主義をたたき込まれた少年少女たちがたどった道とは。福岡・久留米市に住む96歳の綾戸麗子さんは、終戦間際の1945年6月、地元のゴム工場で地下足袋作りに従事していた。当時17歳だった綾戸さんは兵力不足を補うために結成された女子防空通信隊に応募。厳しい試験を突破し、召集されたのは地元の軍司令部。だが待ち受けていたのは、3交代制の過酷な勤務担当したのは福岡の司令部から受けた空襲警報などを各方面の施設に知られる任務。通報内容を少しでも間違えると、容赦なくビンタの制裁が待っていた。昼夜を問わず、極度の緊張状態を強いられ疲労困ぱいの日々だったが、日本の勝利を信じ任務に邁進。軍国少女だった綾戸さんがつづった昭和20年の敗戦直後に感じた戸惑いを綴っている。綾戸さんは「戦後は女子通信隊の話を滅多にしない。戦争に加担したという後ろめたさがあった」と語った。20年近く、女子通信隊の調査を続けている地域史研究家・西田秀子さんは、70人近い元隊員に聞き取りやアンケート調査を行ってきた。彼女たちの多くが、自ら入隊を希望し、自身の任務を誇りに感じていたと記している。当時、女性は軍人にはなれなかったものの、綾戸さんたちは軍隊に関わる道を選んだ。西田さんは「軍隊の中に入れるのは限られた女性たち。選ばれたエリート女性しか入れない。自分も戦場に行く男のこと同じように対等な立場になりたい、それには軍に入るのが一番だと思うわけ」と語った。