牧野巧さんは一卵性双生児として生まれてきたが、子供がいなかった伯父伯母のところに養子に出されたという。1952年のヒュで杉浦家に生まれた巧さんだったが生後半年で京都の牧野家へ養子として引き取られた。牧野家では養父が結核で倒れ、生活保護で暮らす貧しい家庭だった。働かない母と働けない父の代わりに家計を支えていたのは小学生の巧さんだったという。養子だと知らされず育てられた巧さんは母からの愛情の薄さに疑問を抱いていたという。近所のおばさんに「あんた貰われてきた子なんやろ」と言われて気付いたという。さらに双子がいることも知った。実は双子の弟はいとこ同士として顔を合わせていた。不自由のない家庭で育っていた弟に、双子と気付いてからも仲良くなることはなかったという。一方の弟・杉浦文昭さんは巧さんが兄であることを知っていたが、両親から口止めをされていたという。
中学校に入ると文昭さんは急速に成績が良くなった。一方の巧さんは地域の有名ヤンキー校、京都市立伏見工業高等学校へと入学。中学時代から無の知られていた巧さんは入学早々高3の番長に呼び出された。翌年には高校2年生で番長へと登りつめた。一方、文昭さんは兵庫県でも有数の新学校、兵庫県立姫路西高等学校へと入学。文昭さんはその後、京都大学へと進学。巧さんは高卒で就職し6年後、自ら会社を立ち上げた。事業は失敗し24歳で3000万円の借金を背負うこととなった。文昭さん東海銀行に入行。借金の件で実父と伯母がケンカし、両家は断絶状態に。それぞれ別の人生を歩み続け40年の月日が流れた。
中学校に入ると文昭さんは急速に成績が良くなった。一方の巧さんは地域の有名ヤンキー校、京都市立伏見工業高等学校へと入学。中学時代から無の知られていた巧さんは入学早々高3の番長に呼び出された。翌年には高校2年生で番長へと登りつめた。一方、文昭さんは兵庫県でも有数の新学校、兵庫県立姫路西高等学校へと入学。文昭さんはその後、京都大学へと進学。巧さんは高卒で就職し6年後、自ら会社を立ち上げた。事業は失敗し24歳で3000万円の借金を背負うこととなった。文昭さん東海銀行に入行。借金の件で実父と伯母がケンカし、両家は断絶状態に。それぞれ別の人生を歩み続け40年の月日が流れた。
