日本航空高校石川を卒業した寶田一慧さんは福井工業大学に進学し、野球部に所属している。能登半島を襲った巨大地震で549人が犠牲となり、日本航空石川は校舎が損壊した。野球部の寮も被害を免れず、山梨にある系列校が生徒の受け入れを決めた。部員たちは教室で共同生活を送ることになった。1月中旬、富士川町にあるグラウンドで全体練習の再開に漕ぎ着けた。部員の多くは県外出身だったが、2年生だった福森誠也さんは七尾市出身。震災当日、祖母の家で被災し、着の身着のままで祖母を背負って逃げたという。仲間たちが山梨に移っても、福森さんは祖母が気がかりだと七尾市の避難所で生活していた。監督やチームメイトからの連絡を受け、福森さんは避難所の人々に挨拶し、山梨へ向かった。
中村監督は取材カメラをシャットアウトし、福森さんに被災体験を語らせた。主将を務めていた寶田さんは「チームメイトにこれだけ苦しい思い人がいる。その気持ちに寄り添い、共に戦っていきたい」とノートに綴っていた。福森さんは徐々に笑顔を取り戻すなか、輪島市出身で1年の石川智規さんを気にかけていた。同市は震災の被害が最も大きく、福森さん宅は全壊。震災当日、父の明夫氏らと県外に旅行していたため、難を逃れていた。石川さんが余震で精神的に疲弊し、練習に参加できなかった時、福森さんは「なんかあったら、なんでも言え」と話しかけ、石川さんは頼もしさを感じたという。
24年1月26日、センバツ高校野球の出場校が発表された。日本航空石川の名前が呼ばれると、避難所では歓喜の声があがった。初戦で惜敗するも、部員たちは笑顔、感謝、恩返しを胸にプレーし続けた。3月28日、部員たちは母校へ戻った。
中村監督は取材カメラをシャットアウトし、福森さんに被災体験を語らせた。主将を務めていた寶田さんは「チームメイトにこれだけ苦しい思い人がいる。その気持ちに寄り添い、共に戦っていきたい」とノートに綴っていた。福森さんは徐々に笑顔を取り戻すなか、輪島市出身で1年の石川智規さんを気にかけていた。同市は震災の被害が最も大きく、福森さん宅は全壊。震災当日、父の明夫氏らと県外に旅行していたため、難を逃れていた。石川さんが余震で精神的に疲弊し、練習に参加できなかった時、福森さんは「なんかあったら、なんでも言え」と話しかけ、石川さんは頼もしさを感じたという。
24年1月26日、センバツ高校野球の出場校が発表された。日本航空石川の名前が呼ばれると、避難所では歓喜の声があがった。初戦で惜敗するも、部員たちは笑顔、感謝、恩返しを胸にプレーし続けた。3月28日、部員たちは母校へ戻った。