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「化政文化」 のテレビ露出情報

「関東・関西の「関」ってなに?」というクイズが出された。正解は鈴鹿関・不破関・愛発関の「関」。東京大学史料編纂所の本郷和人教授の解説。関所は古くから日本各地の道や国境に設けられそこを通る人をチェックする現在の空港の入国審査や保安検査場のような場所。人の行き来が監視しやすくするために主に山に挟まれた道が狭いところに設置された。古代の日本は奈良・京都に朝廷があってそこが日本の中心だった。朝廷やその周辺の安全を守る目的で関所が作られた。なかでも朝廷に直接繋がる道にある東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関の3つは朝廷の安全を守る重要な役割を果たしていた。現在の関東は東京・神奈川・千葉・埼玉・栃木・群馬・茨城を指すが、昔は3つの関所より東側の中部地方や東北地方もすべて「関東」と呼んだ。関東という言葉がいつから使われ始めたのかはっきりとは分かっていないが平安時代の「続日本紀」では既に使われている。どのようにして現在の関東になったのか?奈良時代くらいに朝廷の勢力が東に延びていくにつれ現在の中部地方は関東からは離脱していく。朝廷の軍事活動によって関東は北へ広く陸地が続いていることがわかると、現在の東北地方は「みやこから延びる道の奥にある」という意味の「みちのく」と呼ぶようになる。鎌倉時代になると鎌倉幕府を中心とした国々が関東と呼ばれるようになる。京都や奈良の人たちは幕府の武士を「関東の武士」と呼んだり鎌倉幕府が支配した土地を「関東御分国」と呼ぶなど関東という言葉は鎌倉幕府そのものを指す言葉としても使われるようになった。室町時代になり幕府が京都に移ると関東の支配が手薄になることを恐れた室町幕府は第2の幕府・鎌倉府を置いた。鎌倉府の支配下にある国々が関東と呼ばれるようになる。明治時代になると廃藩置県によって都道府県が整備されていき関東は現在の1都6県になった。一方、「関西」という言葉が一般的に使われ始めたのは明治時代になってから。古くから日本の中心は京都・奈良だったのでそこにいる人たちはわざわざ自分がいる場所は西側だと区別する必要がなかった。ところが江戸時代後期に化政文化が盛り上がったことや明治時代にみやこが京都から東京に移ったことで日本の中心は東京と浸透し始めると関東より西という感覚が生まれ「関西」という言葉が生まれたのではないかという。7世紀後半に設置された3つの関所をきっかけに「関東」「関西」と呼び方が分けられた。結果としてそれぞれの文化にも影響した。関東出身の夫と関西出身の妻の3組の夫婦に東西文化の違いを話してもらった。食文化では関東の卵焼きは甘いが関西はしょっぱい。関東は焼きのり、関西は味付けのり。配膳では関東は右に味噌汁で奥におかず、関西は右におかずで奥に味噌汁。交通系ICカードで改札に入るには関東は最低でも初乗り運賃が必要だが関西は1円でも入っていればOK。チコちゃんは関東のことばで言うと恥ずかしいのは「なかにしさん」のイントネーションだと話した。

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