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「十河信二」 のテレビ露出情報

日本の象徴とも取れる新幹線だが、東海道新幹線は利用者は約70億人に対し乗車中の死亡事故は未だ0件と高い安全性が見られる。新幹線の計画が持ち上がったのは昭和30年ごろのことで、戦後の高度経済成長に湧き上がる中東京-大阪を結ぶ東海道線の輸送量も増加を続けていたことがある。この問題に国鉄総裁・十河信二は200kmで東京大阪間を結ぶプランを打ち出した。その課題は200近く山積したと言われているが、D51などを手掛けた伝説の鉄道技師・島秀雄は実現は可能と確信していたという。団子鼻と呼ばれた独特のフォルムは戦闘機の技術が活用され空気抵抗を減らす狙いがあったという。車輪が大きく揺れてしまう蛇行動は空気バネの技術で対応した。安全対策として自動列車制御システムも導入され、電気信号で列車のスピードを把握することで緊急停止した車両に近づくと自動的に減速できるようになっている。そして、試験走行では目標としていた200kmを超える256kmを記録した。光速にちなんだ超特急「ひかり」と特急「こだま」と命名され、東京五輪開幕を控え昭和39年10月1日に晴れて開業となった。そして、東京-大阪間を従来より2時間半短い時間で繋いだことで日本復興の象徴となったのだった。そして、依頼品は開業当日の切符であり、東京を6時に出発するひかり1号と、新大阪を17時30分に出発するこだま122号とある。座席番号は手書きであり時代の名残が感じられる一品となっている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年4月25日放送 20:00 - 21:48 テレビ朝日
タモリステーション皆が乗った新幹線60年物語
1950年代後半、日本は高度経済成長期に突入。一方で鉄道機能のパンクの問題を抱えていた。問題を解決しようと立ち上がったのは第4代国鉄総裁・十河信二と技師長・島秀雄。1950年代後半に東京~大阪間を繋いでいた東海道本線の列車は最高時速95km。十河と島が掲げた目標最高時速は200km超え。当時の列車高速化を阻む問題は空気抵抗で克服は困難と考えられていた。195[…続きを読む]

2025年4月24日放送 20:15 - 20:42 NHK総合
熱談プレイバック新幹線 誕生物語
昭和30年代に入ると、すでに東海道線の輸送力は限界に達しつつあった。そこで国鉄総裁の十河信二は輸送力を強化するために東京~大阪間に新幹線を通し、そこに世界最速の電車を走らせようと考える。そこで島秀雄が注目したのが小田急ロマンスカー 3000形SE車。実はこの車両、国鉄と私鉄の技術者が共同で開発したもので、秀雄も関わっていた。秀雄は東海道本線の線路を使った30[…続きを読む]

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