中国の歴史書「魏志倭人伝」にその名が登場する女王・卑弥呼。彼女が率いたとされている邪馬台国を巡っては未だ多くの謎が残っており、その位置さえ明らかになっていない。外交面では中国に使者を送って「親魏倭王」の称号を得た卑弥呼だが、その死後に台頭してきたヤマト王権とのつながりも謎に包まれている。
日本史上屈指の謎とされている「邪馬台国の位置」。江戸時代から多くの論争が交わされる中で、現在は近畿説と九州説の2つが有力とされている。九州説の根拠の一つとなっているのが弥生時代の集落跡としては国内最大規模の吉野ヶ里遺跡の存在だ。近年、吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査が行われ、新たに発見された石棺墓の棺から無数の線刻が見つかった。これは宗教儀式との関連が指摘されており、「魏志倭人伝」において卑弥呼が「鬼道」という宗教儀式を用いる巫女として君臨していたこととの関連がみられる。同時代の中国では道教が「鬼道」として扱われており、卑弥呼の時代に同じような儀式が行われていた可能性が高いという。
一方、近畿説の舞台となる近畿地方でも新たな発見があった。奈良県の纏向遺跡では東西2km・南北1.5kmに及ぶ巨大な集落の痕跡が見つかっており、中央に存在していたとされる宮殿に卑弥呼が住んでいたという可能性が指摘されている。最新の年代測定を用いた結果、遺跡から発掘された木材は231年に伐採されたものであることが判明。これは「魏志倭人伝」において卑弥呼が「親魏倭王」の称号を受けたとされる239年に極めて近い年代だ。さらに、纏向遺跡の南側には全長200mに及ぶ巨大な前方後円墳「箸墓古墳」が存在する。「魏志倭人伝」では卑弥呼が247年頃に亡くなったとされているが、この箸墓古墳が建造されたのは240年から260年代頃とされており、状況からみて「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」とする説が浮上している。
日本史上屈指の謎とされている「邪馬台国の位置」。江戸時代から多くの論争が交わされる中で、現在は近畿説と九州説の2つが有力とされている。九州説の根拠の一つとなっているのが弥生時代の集落跡としては国内最大規模の吉野ヶ里遺跡の存在だ。近年、吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査が行われ、新たに発見された石棺墓の棺から無数の線刻が見つかった。これは宗教儀式との関連が指摘されており、「魏志倭人伝」において卑弥呼が「鬼道」という宗教儀式を用いる巫女として君臨していたこととの関連がみられる。同時代の中国では道教が「鬼道」として扱われており、卑弥呼の時代に同じような儀式が行われていた可能性が高いという。
一方、近畿説の舞台となる近畿地方でも新たな発見があった。奈良県の纏向遺跡では東西2km・南北1.5kmに及ぶ巨大な集落の痕跡が見つかっており、中央に存在していたとされる宮殿に卑弥呼が住んでいたという可能性が指摘されている。最新の年代測定を用いた結果、遺跡から発掘された木材は231年に伐採されたものであることが判明。これは「魏志倭人伝」において卑弥呼が「親魏倭王」の称号を受けたとされる239年に極めて近い年代だ。さらに、纏向遺跡の南側には全長200mに及ぶ巨大な前方後円墳「箸墓古墳」が存在する。「魏志倭人伝」では卑弥呼が247年頃に亡くなったとされているが、この箸墓古墳が建造されたのは240年から260年代頃とされており、状況からみて「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」とする説が浮上している。