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「国立公文書館」 のテレビ露出情報

1949年7月5日午前、日本国有鉄道の下山定則総裁が行方不明となり、翌日に轢死体で見つかった。現場付近にある旅館の女将は「午後2時から5時半まで上品な男が休憩していた」と証言し、身なりなどの特徴は下山総裁の服装と一致。複数の通行人は似た人物が現場付近を徘徊する姿を目撃し、捜査一課は国鉄の人員整理に悩んでいたことから、総裁が自死したと推理した。一方、捜査二課、検察は遺体の状況に違和感を唱え、東京大学法医学教室は「死後に轢かれたもの」と鑑定した。
51年、吉田茂首相は日本の占領政策終了に向け、ダレス対日講話問題特使と会談。このなかで、首相は下山事件の犯人について言及し、政府として韓国人と断定していたという。男の名前は李中煥。学生時代の友人の影響で共産主義を信奉し、モスクワ共産大学政治学科に進学。卒業後、ソビエト共産党政治局で暗号化係に配属された。49年4月中旬、李中煥に下山総裁と接触するようソビエトから指令が舞い込んだ。6月30日、ソ連の中日幹部が下山総裁に接触し、同日夜には総裁の暗殺が指示されたという。事件当日、総裁はソ連大使館にある建物へ運ばれ、薬物によって殺害。党員の1人が総裁の衣類を着用し、現場付近を徘徊したという。だが、李とともに諜報活動に関わったことがあるという渡辺修二曰く、李がソ連大使館に勤務した実態はなく、虚偽の情報提供で金銭を得ていたという。その後、アメリカの意向で李の捜査は打ち切られた。
李中煥に関する捜査資料によると、李はGHQ傘下で諜報活動を担当していたビクター・マツイとつながりがあった。マツイがアメリカの議会図書館のインタビューに応じる映像が残され、国鉄内部の共産主義者の情報を得るために二重スパイを使っていたという。49年、ソ連は原爆の開発に成功し、共産主義勢力の拡大に躍起だった。一方、アメリカは日本を反共の砦にすべく、暗躍していた。49年、鉄道が絡んだ怪事件が相次ぐ。マツイの上官にあたるジャック・キャノンが統率する機関が一連の事件に絡んでいるという疑惑が報じられ、NHKは77年、キャノン本人にインタビューを敢行した。キャノンは事件への関与を否定していた。
アメリカの国立公文書館にはキャノン自らが記した報告書が残され、諜報活動を実行する東京神奈川CICで李中煥と接触していた。キャノンの側近だったアロンゾ・シャタック氏が取材に応じ、共産党員の情報を収集していた他、「二重スパイはソビエトのために活動をするように見せながら、実際はアメリカのために活動していた」と証言した。インタビューの5カ月後、シャタック氏は死去。下山事件をめぐり、東京地検の布施健検事は捜査を進めていたが、アメリカ側に筒抜けだったという。50年4月13日、李中煥はアメリカによって韓国へ強制送還された。
シベリア抑留を経験し、49年に帰国した鎗水徹は読売新聞の記者として下山事件について独自に調べていた。鎗水は戦後最大のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫と深いつながりを持ち、児玉は「国鉄の人員整理にからんで、下山総裁の殺害計画があった」と語っていた。人員整理はGHQの指示で、アーサー・フジナミは下山総裁の身辺を調べていたという。検察、ジャーナリストはフジナミの足取りを追ったが、難航を極めた。番組ではフジナミの遺族を発見したところ、フジナミは20年に101歳で死去。GHQ傘下のCICは共産主義が日本に蔓延することを憂慮し、下山総裁が共産主義側につきやしないかと疑っていたという。フジナミが娘のナオミさんに語ったことによると、総裁は暗殺されたという。また、ジャーナリストだった鎗水徹は子供らに下山事件について、「米軍による殺人」と語っていたという。
鎗水は下山事件について調査を進めるも、凶器をちらつかせて脅迫を受けていたといい、執筆よりも家族を守ることを選択。2017年、96歳で死去。下山総裁の死後、人員整理は大きな抵抗なく完了し、朝鮮戦争で国鉄は軍事物資、兵士の輸送などに協力した。51年、吉田茂首相はダレス対日講話問題特使との会談で、下山事件は韓国人によるものと断定したとされる。下山総裁という1人の人物の死の真相は日本の手綱を握ろうとする巨大な力を前に闇の中へ消えていった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年1月28日放送 23:00 - 23:56 TBS
news23戦後80年プロジェクト つなぐ、つながる
戦後80年プロジェクト つなぐ、つながるを放送、今夜は、終戦から僅か1年後に行われた花火大会の秘話をひもといていく。村瀬煙火は79年前、ある特別な花火大会に参加、それは戦後全国で初めて行われた花火大会だった。長い戦争が終わり、戦後初となる花火大会は終戦から1年後の1946年8月10日、長良川で行われた。10万人以上の観衆が集まった。現正寺住職・高木慈興さんは[…続きを読む]

2025年1月16日放送 10:25 - 13:00 テレビ朝日
大下容子ワイド!スクランブルANN NEWS
今年は戦後80年。太平洋戦争の激戦地となった硫黄島で戦没者追悼式が行われ、遺族は「事実を風化させない」と訴えた。1945年の太平洋戦争末期小笠原諸島の硫黄島では米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられ、旧日本兵らおよそ2万1900人が命を落とした。今日の追悼式では、日本側の守備隊を指揮した栗林忠道中将の孫が遺族を代表して追悼の言葉を述べた。

2024年12月12日放送 4:15 - 5:00 NHK総合
国際報道(ニュース)
きのうノルウェー・オスロで行われた日本被団協へのノーベル平和賞授賞式、式典にはブラジルに住む被爆者も出席した。これに先立ちブラジル・サンパウロではコンサートが開かれた。「イパネマの娘」などを書いた詩人ヴィニシウス・デ・モラエスは第二次世界大戦中から外交官として勤務するなか広島への原爆投下を知り衝撃を受けた。自らの作品の中で大切なものを「バラ」と表現することが[…続きを読む]

2024年12月9日放送 23:00 - 23:59 日本テレビ
news zero(特集)
日本時間の昨日ハワイで行われた真珠湾攻撃の追悼式典。旧日本軍が83年前に行った攻撃は3年9か月に及ぶ太平洋戦争の発端となった。その日本軍の出撃の地は北方領土の択捉島。今もロシアによる不法占拠が続いている場所。向田典子さんはかつて北海道の北東部にある択捉島に住んでいた。択捉島のヒトカップ湾に軍艦およそ30隻が集結。数日後には一斉に出撃した。向かった先は米国ハワ[…続きを読む]

2024年12月6日放送 22:30 - 23:30 NHK総合
時をかけるテレビ(時をかけるテレビ)
2006年放送の「NHKスペシャル 硫黄島玉砕戦 ~生還者61年目の証言~」が流れた。第二次世界大戦の激戦区だった硫黄島玉砕戦の記録はアメリカ国立公文書館に記録がある。そこには3月に玉砕したはずの日本軍が5月になっても生きており、週に100人単位で戦死していたという記録がある。硫黄島玉砕戦を生き残った生還者は戦後に多くは語ろうとしなかった。元下士官の金井啓さ[…続きを読む]

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