テーマは「江戸時代を代表する高僧・祐天上人」。祐天寺といえば、渋谷から東急東横線で3駅という近さにもかかわらず、住みやすい街として知られている。地名の由来ともなっている祐天寺は目黒の念仏道場として1718年に建立された。ここに祀られているのは祐天上人という江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧で、徳川将軍家も信仰を寄せたと言われている。8代将軍・徳川吉宗との間にある逸話を紹介。祐天寺の境内には徳川将軍家から贈られたものがたくさんある。仁王門は5代将軍・綱吉の養女・竹姫から寄進された。境内にある鐘楼と梵鐘は6代将軍・家宣の正室・天英院が寄進。阿弥陀堂とその中の阿弥陀如来坐像も徳川家から寄付されたもの。祐天寺の境内には徳川将軍家から贈られたものが間近で見られる。徳川将軍6人のお墓がある菩提寺・増上寺の最高位である法主を務めたのが祐天上人。
祐天上人の生涯を記した江戸庶民から人気を博した読物「祐天僧正御一代記」によると、祐天上人は福島県で生まれ、12歳の時に増上寺のお坊さんであったおじを訪ねて上京し、その後増上寺で修行。祐天上人が修行を始めた頃はお経が覚えられずに苦労したという。当時、僧侶としては優秀じゃなかったという祐天上人は千葉・成田山で21日間の断食修行をした。夢に不動明王が現れ「剣を飲めば愚かさの原因である悪い血が流れて知恵を授かる」と告げられ、その通りにした結果、頭脳明晰になったと言われている。祐天上人は19歳の時に師匠である檀通上人に随行して諸国の寺院を巡り修行。この修行時代に各地で才能を発揮。それを記した書物が発売されたことで祐天上人の名が一気に広まった。話を聞きつけた将軍家からも5代将軍の母・桂昌院や6代・家宣、大奥の人々にも支持された。徳川家から庶民まで絶大なる支持を集めた祐天上人は39歳で増上寺に戻り、その後トップにまで上り詰めたが、地位におごることなくお布施や名号を授け、頂いた浄財を鎌倉の大仏や当時荒廃していたお寺を直したと伝えられている。
祐天上人には江戸のゴーストバスターというもう一つの顔があった。有名なエピソードが「累ヶ淵」。その話を伝えるのが「かさね塚」と書かれた石碑。「累ヶ淵」を紹介。「累ヶ淵」の話は読み物といった書物や歌舞伎、落語などの題材になったことから、歌舞伎役者らによって石碑が建立された。歌舞伎や落語などの上演前には累供養をする習慣が今でもある。
祐天上人の生涯を記した江戸庶民から人気を博した読物「祐天僧正御一代記」によると、祐天上人は福島県で生まれ、12歳の時に増上寺のお坊さんであったおじを訪ねて上京し、その後増上寺で修行。祐天上人が修行を始めた頃はお経が覚えられずに苦労したという。当時、僧侶としては優秀じゃなかったという祐天上人は千葉・成田山で21日間の断食修行をした。夢に不動明王が現れ「剣を飲めば愚かさの原因である悪い血が流れて知恵を授かる」と告げられ、その通りにした結果、頭脳明晰になったと言われている。祐天上人は19歳の時に師匠である檀通上人に随行して諸国の寺院を巡り修行。この修行時代に各地で才能を発揮。それを記した書物が発売されたことで祐天上人の名が一気に広まった。話を聞きつけた将軍家からも5代将軍の母・桂昌院や6代・家宣、大奥の人々にも支持された。徳川家から庶民まで絶大なる支持を集めた祐天上人は39歳で増上寺に戻り、その後トップにまで上り詰めたが、地位におごることなくお布施や名号を授け、頂いた浄財を鎌倉の大仏や当時荒廃していたお寺を直したと伝えられている。
祐天上人には江戸のゴーストバスターというもう一つの顔があった。有名なエピソードが「累ヶ淵」。その話を伝えるのが「かさね塚」と書かれた石碑。「累ヶ淵」を紹介。「累ヶ淵」の話は読み物といった書物や歌舞伎、落語などの題材になったことから、歌舞伎役者らによって石碑が建立された。歌舞伎や落語などの上演前には累供養をする習慣が今でもある。
住所: 東京都千代田区永田町1-10-1
URL: http://www.ndl.go.jp/
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