兵庫県の公民館に、ある貴重な資料が保管されている。太平洋戦争末期、当時13歳の少年が書いたものだ。少年の名前は、森本隆さん。母親と4人の幼いきょうだいと、現在の明石市で暮らしていた。食べ物が不足し、配給を受けても十分に食事がとれなかった時代。命の危険にさらされながら、13歳の隆さんは、毎日、日記を書き続けた。309日間にわたる克明な記録、そこには戦火の日常を生きる、少年の姿があった。1945年、日本各地が米軍の空襲にさらされていた。戦闘機の工場があった明石市も標的となり、6月9日には600人以上が亡くなった。空襲はさらに続き、隆さんの家のすぐ近くにあった大きな港の沖合で、進徳丸という商船学校の船が、米軍の空襲を受け、6人が命を落とした。日常の中にある戦争を、淡々と記録し続けた隆さんとはどんな人だったのか、いとこの英敏さんは当時、隆さんの家で1年ほど、一緒に暮らしたことがある。体が弱かった隆さんはいつ見ても奥の部屋でランニングの姿で、座卓に向いて、書き物してるという印象だったという。隆さんは、毎日の食事の内容もこと細かに記録していた。米が足りず、麦や豆で空腹をしのぐ毎日。それでも日記に不満を書くことはなかった。当時の隆さんの考えがうかがえるものがある。昭和19年、戦地に赴いた父親に送った近況報告に米国人を「ヤンキー」と呼び「ヤンキーにとどめをさす秋がやってきた。わが家もそのつもりでカウヨリクフウ、ホシガリハシマセンカツマデハ、フソクハイイマセンカツマデハでがんばっている」と書いていた。すべては戦争に勝つためという当時の教育が色濃く表れていた。
1945年8月15日。日本で終戦が伝えられたこの日、隆さんは「ひるから天皇陛下おんみづからのごほうそうといわれるので、なにかいいことかとおもっていたら、となりでむじょうけんこうふくとか話している。必勝をしんじきっていたので、でまとばかりおもっていたのに、ニッキをかこうとしてしり、なんともいえぬかなしみ。心では泣けてきた。」と書かれていた。それから79年の歳月が流れた、今月3日。兵庫県加古川市に、隆さんの親族が集まっていた。近所のお墓には隆さんの名前が刻まれている。彼は終戦から3年後、病気で亡くなっていた。隆さんのめい、上田紀子さんは若いころに、子どものころに亡くなったっていうことを聞いてるんで、会ったことはないが「すごい賢い伯父さんがいたっていうのは、母からとかもおばあちゃんとかからも聞いた」と話していた。この夏、隆さんが遺した膨大な日記を、当時の隆さんと同世代の中学生の琉詩さんと紗翔さんに読んでもらうことにした。2人にとって隆さんは、おばあちゃんのお兄さんにあたる。日記を読み終えて「好きなもんは買ってもらえて、ごはんも好きなもんおなかいっぱい食べれて、そういう当たり前、今、ふだん、当たり前に過ごしている生活は幸せなことで、絶対に当たり前やとは思ってはいけないなって思った」と感想を語っていた。
1945年8月15日。日本で終戦が伝えられたこの日、隆さんは「ひるから天皇陛下おんみづからのごほうそうといわれるので、なにかいいことかとおもっていたら、となりでむじょうけんこうふくとか話している。必勝をしんじきっていたので、でまとばかりおもっていたのに、ニッキをかこうとしてしり、なんともいえぬかなしみ。心では泣けてきた。」と書かれていた。それから79年の歳月が流れた、今月3日。兵庫県加古川市に、隆さんの親族が集まっていた。近所のお墓には隆さんの名前が刻まれている。彼は終戦から3年後、病気で亡くなっていた。隆さんのめい、上田紀子さんは若いころに、子どものころに亡くなったっていうことを聞いてるんで、会ったことはないが「すごい賢い伯父さんがいたっていうのは、母からとかもおばあちゃんとかからも聞いた」と話していた。この夏、隆さんが遺した膨大な日記を、当時の隆さんと同世代の中学生の琉詩さんと紗翔さんに読んでもらうことにした。2人にとって隆さんは、おばあちゃんのお兄さんにあたる。日記を読み終えて「好きなもんは買ってもらえて、ごはんも好きなもんおなかいっぱい食べれて、そういう当たり前、今、ふだん、当たり前に過ごしている生活は幸せなことで、絶対に当たり前やとは思ってはいけないなって思った」と感想を語っていた。