限界を超えて言葉を取り戻した奇跡の物語。内科医の日高四郎さんは、60年ぶりに患者の言葉をよみがえらせた。午前の診療を終えると訪問診療に出かけるのが日課。患者に寄り添う医療の信念を強くしたのは、ある高齢親子との出会いだった。1995年7月6日、当時40歳だった日高はかかりつけのスナヲさん(86)から「息子が熱を出した」ので診て欲しいと頼まれた。息子・茂雄さん(63)に質問しても何も返ってこなかった。母によると、60年前の高熱で耳が聞こえなくなり、言葉も失った。2人はこれまで身振り手振りで意思疎通してきたという。本当に耳が聞こえないか疑問に感じた日高が聴診器を茂雄の耳につけると音に反応した。息子の耳が聞こえないと思い込んでいた母は悔し涙を流したという。内科医で専門外だった日高は帰宅してすぐ大学病院の耳鼻科に連絡したが、その年齢から発語訓練は無理と言われてしまい、手探りの発語訓練が始まった。茂雄は自分の声を聞くことができないため、カセットプレーヤーに録音して大音量で聞かせた。茂雄は子音を出せず、「あ行」以外が言えなかった。悩んだ日高がため息をつくと、窓が曇った。窓が曇るように息を出せば「は行」の発音になると発見でき、手鏡が曇るように発音してもらうことで茂雄は「は行」が発音できるようになった。音が聞こえるようになった喜びから茂雄はテレビを楽しむまでになった。日高は母が存命のうちに「おかあさん」と言えるようにしたいと目標を立てた。難しかったのは「ん」。茂雄はうがいができなかった。うがいは水が喉に下りてこないように舌を丸めてせき止める必要がある。「ん」と発音するときもその舌の動きが重要だと考えた日高はうがいを必死に練習させた。発語訓練を始めて約1年半後の1996年10月2日に茂雄は「おかあさん」をマスターした。言葉の意味を理解していない茂雄のために母は自分を指差して教えた。日高は茂雄が「おかあさん」と言ったら、顔を出してほしいと母に指示したという。兄の声を聞こうと妹たちも帰ってきた。発語訓練を続けた茂雄は50音をマスター。日高はこの親子を通じて、医療とは病気を抱えているその人生と関わることだと認識したという。親子は2人とも2014年に亡くなった。