アルベルト・アインシュタインは1922年11月17日に神戸港から日本に入国し、43日間の旅で京都・東京・仙台・松島・日光・名古屋・大阪・神戸・滋賀・奈良・宮島(広島)・門司(福岡)を訪れた。アインシュタインが書き残した旅の記録を手がかりに彼の旅を追ってみた。日本へ来る船旅の途中でノーベル物理学賞の受賞が決定し、到着すると大勢の記者に取り囲まれた。日本滞在2日目は列車で10時間かけて京都から東京へ向かった。東京駅に到着するとアインシュタインブームに沸く日本人たちの熱烈な歓迎を受けた。当時のドイツはナチスが台頭して排外的な空気が生まれていた。ユダヤ人であるアインシュタインもノーベル賞の栄誉とは裏腹に差別や嫌がらせを受け、身の危険を感じるようになる中で訪れたのが日本だった。人種に対する偏見が耐えなかったヨーロッパと異なり、日本はみな同じ異邦人だった。ドイツでの緊張から開放されたアインシュタインは日本に居心地の良さを感じていたのかもしない。東京に着いた翌日は慶應義塾大学で講演。6時間以上の講演となったが、2000人以上集まった聴衆は誰も席を立たなかったという。
アインシュタインの来日を企画したのは改造社。来日の3年前に創刊された雑誌「改造」は大正デモクラシー真っ只中の論壇を牽引した。初代社長の山本實彦は世界一流の知識人を日本に呼ぶことが日本の近代化に必要だと考え、哲学者バートランド・ラッセルを招聘。ラッセルから名前を聞いたアインシュタインも日本に招いた。親しくなった山本の自宅に招待されたアインシュタインは日本の暮らしに生きる文化に触れることになった。
アインシュタインは東北帝国大学(現在の東北大学)で講演するため、12月2日に東京から仙台へ向かった。仙台駅でも大群衆の歓迎を受けた。東北帝国大学は総長の2倍の報酬で教授職をオファーしており、他大学よりもアインシュタインへの思いが強かったという。アインシュタインを歓迎する晩餐会では、既に招聘に成功した世界的な植物学者ハンス・モーリッシュが同席して歓待の意を示したが、アインシュタイン教授は実現しなかった。
アインシュタインが旅の合間に書き残した言葉を紐解くと「光」の記述が目立つ。アインシュタインは光の速さが変わらないことを出発点に世界を捉えた。光を科学の目で見ることと沈む夕日に感動することは矛盾しなかった。自然と一体となる感性が息づく日本の可能性にアインシュタインは気づいていた。
旅の終わりで奈良・広島を訪れたアインシュタインは心置きなく散策を楽しんだ。宮島に滞在中に電報が届いた。数カ月前に友人のユダヤ人作家が暗殺されたことから、日本への旅が亡命だと噂されているという。100年前のアインシュタインも自らの人生を振り返りながら瀬戸内海の風景を眺めていたのかもしれない。
デジタルメディアアナリストのマーク・アインシュタインさんは日本に住んで16年。いとこの曽祖父にあたる物理学者アインシュタインについて語ってくれた。なぜ日本人はテクノロジーよりも芸術に興味を示すのかが気になったという。多くの外国人が魅了される現代の日本の技術を見たら嬉しい気持ちになるだろうと語った。アインシュタインは自分が何者であるかを忘れるなとメッセージを残し、1922年12月29日に帰国の途についた。東京滞在中のアインシュタインがホテルのボーイに渡したメモは9年前に世界の注目を集めた。そこには「成功を追い求め、絶えず落ち着かない生活を送るより、穏やかで慎ましい暮らしのほうがはるかに幸福だ」と書いてあった。
アインシュタインの来日を企画したのは改造社。来日の3年前に創刊された雑誌「改造」は大正デモクラシー真っ只中の論壇を牽引した。初代社長の山本實彦は世界一流の知識人を日本に呼ぶことが日本の近代化に必要だと考え、哲学者バートランド・ラッセルを招聘。ラッセルから名前を聞いたアインシュタインも日本に招いた。親しくなった山本の自宅に招待されたアインシュタインは日本の暮らしに生きる文化に触れることになった。
アインシュタインは東北帝国大学(現在の東北大学)で講演するため、12月2日に東京から仙台へ向かった。仙台駅でも大群衆の歓迎を受けた。東北帝国大学は総長の2倍の報酬で教授職をオファーしており、他大学よりもアインシュタインへの思いが強かったという。アインシュタインを歓迎する晩餐会では、既に招聘に成功した世界的な植物学者ハンス・モーリッシュが同席して歓待の意を示したが、アインシュタイン教授は実現しなかった。
アインシュタインが旅の合間に書き残した言葉を紐解くと「光」の記述が目立つ。アインシュタインは光の速さが変わらないことを出発点に世界を捉えた。光を科学の目で見ることと沈む夕日に感動することは矛盾しなかった。自然と一体となる感性が息づく日本の可能性にアインシュタインは気づいていた。
旅の終わりで奈良・広島を訪れたアインシュタインは心置きなく散策を楽しんだ。宮島に滞在中に電報が届いた。数カ月前に友人のユダヤ人作家が暗殺されたことから、日本への旅が亡命だと噂されているという。100年前のアインシュタインも自らの人生を振り返りながら瀬戸内海の風景を眺めていたのかもしれない。
デジタルメディアアナリストのマーク・アインシュタインさんは日本に住んで16年。いとこの曽祖父にあたる物理学者アインシュタインについて語ってくれた。なぜ日本人はテクノロジーよりも芸術に興味を示すのかが気になったという。多くの外国人が魅了される現代の日本の技術を見たら嬉しい気持ちになるだろうと語った。アインシュタインは自分が何者であるかを忘れるなとメッセージを残し、1922年12月29日に帰国の途についた。東京滞在中のアインシュタインがホテルのボーイに渡したメモは9年前に世界の注目を集めた。そこには「成功を追い求め、絶えず落ち着かない生活を送るより、穏やかで慎ましい暮らしのほうがはるかに幸福だ」と書いてあった。
