80年前のきょう、沖縄から九州へ向かっていた疎開船「対馬丸」が米軍に撃沈され、784人の子どもを含む1484人が犠牲になった。その状況を別の船から見ていた90歳の女性が、戦争や紛争が絶えない中、後世の役に立てるのならと初めてカメラの前でつらい記憶を語った。那覇市首里に住む知名ユキ子さん(90歳)。太平洋戦争中、九州へ学童疎開した。当時は10歳。日本が劣勢を強いられ、沖縄への米軍の上陸が確実視されていた。このとき九州へ向かったのは、3隻の疎開船と護衛船の合わせて5隻の船団だった。知名さんたちを乗せた「暁空丸」など5隻の船団は、米軍の標的にならないよう、洋上をジグザグで航行していた。船内で就寝中に破裂音がし、甲板へ駆け上がるよう指示された知名さん。一緒に航行していた「対馬丸」が米軍の潜水艦から魚雷で攻撃され沈んでいく姿を目にした。知名さんとともに「暁空丸」で疎開した首里第二国民学校の元児童たちの証言集には、「対馬丸」の生々しい最期の様子がつづられている。ただ、こうした惨状が広く伝えられることはなかった。危険を回避しながら、ようやく長崎の港にたどりついた知名さんたちに、かん口令が敷かれた。当時、伝えることができなかった「対馬丸」の悲劇。80年がたった今、知名さんが力強く語ったのは、決して忘れてはいけないその事実だった。知名さんは、対馬丸から海に飛び込む人や犠牲者のかばんが漂っている様子を見た、そのむごたらしい記憶を封印したくて、当初は戦争だからしかたないと自分自身に思い込ませていたという。知名さんのように、当時の記憶を語ることができる人が今では4人しかいない中、証言集は疎開先だった九州の学校の一部で平和学習に活用されている。