太平洋戦争中の疎開船「対馬丸」は80年前の1944年、沖縄から九州に向かう途中、米軍に撃沈され、784人の子どもを含む1484人が犠牲になった。現場近くの鹿児島県の悪石島では長年、追悼の活動が続けられ、島の中学生がことし、沖縄での慰霊祭に初めて参列した。悪石島の中学3年生、有川美優さんは「悲しみとか地元だと(感じるのは)難しくて、よかった参加できて」と述べた。80年前、対馬丸はトカラ列島の悪石島の近くで撃沈された。その海を一望できる場所に慰霊碑がある。60年余り前に建てられ、以来、追悼の活動が続けられてきた。島で唯一の小中学校・十島村立悪石島学園ではこれまで、劇を発表するなど対馬丸の学びに力を入れてきた。島出身の1人としてしっかり学んでおかなければと、有川さんは人一倍、熱心に取り組んできた。そして学校には、大切にしている行事がある。月に1度、全校児童生徒で慰霊碑を掃除する“あおぞら活動”。島の近くで起きた悲惨な歴史を風化させないよう、子どもたちが受け継いでいる。
慰霊祭の前日、対馬丸記念館でその悲劇により間近で触れた。期待していた生存者に会うことも叶った。高良政勝さん(84歳)は、一緒に対馬丸に乗っていた両親ときょうだい合わせて9人を亡くした。高良さんが明らかにしたのは、有川さんが思いもしなかった凄絶な体験だった。漂流中、自分を支えてくれていた父親が救助船に政勝さんを渡した後、そのまま沈んでしまったなどと述べた。沖縄で生存者の声や感情を肌で感じた有川さんは来年、進学で地元を離れる。悪石島そして沖縄で学んだ“平和の尊さ”を新たに出会う人たちに伝えていきたいと考えている。
慰霊祭の前日、対馬丸記念館でその悲劇により間近で触れた。期待していた生存者に会うことも叶った。高良政勝さん(84歳)は、一緒に対馬丸に乗っていた両親ときょうだい合わせて9人を亡くした。高良さんが明らかにしたのは、有川さんが思いもしなかった凄絶な体験だった。漂流中、自分を支えてくれていた父親が救助船に政勝さんを渡した後、そのまま沈んでしまったなどと述べた。沖縄で生存者の声や感情を肌で感じた有川さんは来年、進学で地元を離れる。悪石島そして沖縄で学んだ“平和の尊さ”を新たに出会う人たちに伝えていきたいと考えている。