昭和3年、文夫は、小樽高等商業学校に合格。卒業後は、全国に70以上の支店を持つ不動貯金銀行に就職した。銀行では、ニコニコすることが事業の成功にもつながるという「ニコニコ主義」を掲げていた。昭和11年、26歳で結婚。1男1女が生まれる。小島よしおの伯父・康彰さんによると、文夫は、借金の保証人になり、莫大な借金を抱えることになったという。銀行に居づらくなった文夫は退職。借金返済のため、高価な繊維として注目されていたアンゴラウサギに目をつけるもうまくいかず、次にパチンコ店を手掛けた。昭和27年、信用保証会社の設立に力を貸してほしいと話を受ける。その会社の役割は、公共工事の発注に伴い、国や自治体が建設業者に支払う前払金を保証すること。その会社は、創業70年を超え、現在も札幌の中心部にあった。文夫は、設立に向け、資金集めや組織づくりに奔走した。会社に残っている写真では、文夫がにこやかな表情で映っていて、温厚な性格から人が集まり、仕事が順調に進んでいったとみられる。文夫の会社は、重要なインフラ工事を次々と支えた。会社設立5周年の記念冊子には、「意義のある仕事を天から授かった」などという文夫の言葉が残されている。小島よしおの父・孝之は、自分も社会に役立つ仕事に就きたいと学業に励んだ。昭和41年に早稲田大学に進学。学生運動が盛んな時代だった。孝之は、政治活動を手伝うようになり、政治家になりたいと考えるようになったが、父・文夫から反対されたという。孝之は、大学卒業後、政党の職員となり政治の世界へ。