千葉・市川市にある安国院の住職・中山さんのが依頼人。安国院は1315年に創建された日蓮宗の古刹。本堂の隣には寺が運営するカフェがある。イベントスペースとしても貸し出しており、落語など幅広い催しを開いている。中山さんはCGアーティストとしても活動しており、境内には作品が展示されている他、2つの大学の非常勤講師としてCGの授業を受け持っている。去年は復職デザイナー・徳嶺裕子さんとコラボしたドレスがパリコレで披露された。
中山雅紀さんのお宝は「江戸相撲力士の等身大掛軸」。描かれているのは釈迦ヶ嶽雲右衛門226cmと生月鯨太左衛門230cm。大正初めに玉垣部屋の親方から寄贈されたもので、本堂に飾るために表装を切り詰めた。江戸時代に初めて幕府公認の相撲興業が行われた富岡八幡宮には歴代力士の名が刻まれた巨人力士身長碑があるが、中でも最も大きいのが生月鯨太左衛門で、3番目に大きいのが釈迦ヶ嶽雲右衛門。釈迦ヶ嶽は1749年に出雲国大塚村で生まれた。おやつに30合の米を平らげたと言われるほどで、身長は13cmで190cmを超えたとされる。15歳で大阪相撲の朝日山部屋に入門し、20歳で江戸相撲に大関として出場。後の横綱・谷風に勝利するなど6勝1預かり1休の好成績を残した。その身長と180kgという体格から茶店には2階の窓へ代金を支払ったという逸話が残っている。美男子でもあり、相撲の観覧を禁止されていた女性らが出待ちしていたという。1773年には天覧相撲で優勝。後桃園天皇から天下一の言葉を賜り、天杯を拝受した。しかし腸閉塞により1775年、27歳で他界した。約50年後の1827年に肥前国生月島で生まれたのが生月鯨太左衛門。出生時の体重は7500gで、3歳で40kg近い体重があった。11歳で鯨にまたがり刀を刺して捕らえるなどの伝説が残っている。15歳で小野川部屋に入門。得意技は張り手と突っ張りで、1845年の興業では千秋楽で5人を同時に相手して勝利したという。江戸に出た後は玉垣部屋に入門。この頃に錦絵が流行しており、生月の絵は爆発的に売れた。しかし生月が江戸で取組を行ったのは1846年11月場所のみで、ほとんどが土俵入りのみの出場だった。これは巨体から対戦を避ける力士が続出したため。1850年に病により24歳で他界した。依頼品は長さ280cm、幅140cmで身長も言い伝え通り。釈迦ヶ嶽の等身大掛軸は富岡八幡宮と相撲博物館に。生月は富岡八幡宮にあるのみ。
中山雅紀さんのお宝は「江戸相撲力士の等身大掛軸」。描かれているのは釈迦ヶ嶽雲右衛門226cmと生月鯨太左衛門230cm。大正初めに玉垣部屋の親方から寄贈されたもので、本堂に飾るために表装を切り詰めた。江戸時代に初めて幕府公認の相撲興業が行われた富岡八幡宮には歴代力士の名が刻まれた巨人力士身長碑があるが、中でも最も大きいのが生月鯨太左衛門で、3番目に大きいのが釈迦ヶ嶽雲右衛門。釈迦ヶ嶽は1749年に出雲国大塚村で生まれた。おやつに30合の米を平らげたと言われるほどで、身長は13cmで190cmを超えたとされる。15歳で大阪相撲の朝日山部屋に入門し、20歳で江戸相撲に大関として出場。後の横綱・谷風に勝利するなど6勝1預かり1休の好成績を残した。その身長と180kgという体格から茶店には2階の窓へ代金を支払ったという逸話が残っている。美男子でもあり、相撲の観覧を禁止されていた女性らが出待ちしていたという。1773年には天覧相撲で優勝。後桃園天皇から天下一の言葉を賜り、天杯を拝受した。しかし腸閉塞により1775年、27歳で他界した。約50年後の1827年に肥前国生月島で生まれたのが生月鯨太左衛門。出生時の体重は7500gで、3歳で40kg近い体重があった。11歳で鯨にまたがり刀を刺して捕らえるなどの伝説が残っている。15歳で小野川部屋に入門。得意技は張り手と突っ張りで、1845年の興業では千秋楽で5人を同時に相手して勝利したという。江戸に出た後は玉垣部屋に入門。この頃に錦絵が流行しており、生月の絵は爆発的に売れた。しかし生月が江戸で取組を行ったのは1846年11月場所のみで、ほとんどが土俵入りのみの出場だった。これは巨体から対戦を避ける力士が続出したため。1850年に病により24歳で他界した。依頼品は長さ280cm、幅140cmで身長も言い伝え通り。釈迦ヶ嶽の等身大掛軸は富岡八幡宮と相撲博物館に。生月は富岡八幡宮にあるのみ。
住所: 島根県出雲市大社町杵築東99-4