TVでた蔵トップ>> キーワード

「原爆資料館」 のテレビ露出情報

戦時中、5歳の娘を育てていた主婦・金原まさ子(当時34)。終戦直後に書かれた日記には、先行きが見えない混乱に覆われていく日本の姿を綴っていた。戦後、日本の食糧難は一層深刻なものとなっていた。終戦半月後、連合国軍による日本の占領統治が始まる。一時は不安が広がるも、人々は徐々に受け入れていく。
敗戦で社会の価値観が変わっていく中、人々の間で溝が生まれていく。帰国した復員兵らは「お前たちのせいで負けた」と罵られるようになった。夫を特攻作戦で亡くした伍井園子(当時26)。夫の死後、伍井はショックで母乳が出なくなった。その3ヶ月後、一人息子が衰弱死。伍井は当時、「早く逝った主人をどんなに恨めしく思ったことか」と綴っている。このころ、戦争で夫を亡くした女性たちは仕事もなく日々の生活すらままならなくなっていた。街中には米軍が進駐し、慰安や娯楽の施設が作られていった。米兵相手にダンスホールなどで働いた人も。
戦後、米国は自国の優れた技術や文化をメディアで誇示。日本の出版物は検閲され、米兵の犯罪など不都合な事実は覆い隠された。人類史上初めて原爆が投下された広島では、戦後も多くの人が死の淵に立たされていた。そんな被爆者の実情を手記に綴っていた吉川清(被爆当時33)。原爆で両腕・背中・腹部に重度のヤケドを負った。父は全身に火傷を負い亡くなった。吉川は倒れていたところを寺に収容され、その当時を「日一日と死者の数が増える」「人間の化け物がごろごろしている」などと綴っている。病院に入れたのは被爆から半年後。その後も後遺症に苛まれた。この年、推定21万人が亡くなった。
1945年の年の瀬。主婦・金原まさ子は穏やかな暮らしを取り戻しつつあった。ちょうど4年前に始まった戦争のことを、当時の日記に「4年前、我々はいかに感激と興奮のるつぼに巻き込まれていたろう」「4年後の今日、この惨めな敗戦日本を誰が想像し得ただろうか」などと綴っている。
戦後、直接米国の軍政下に置かれた沖縄。沖縄戦を生き抜いた徳元八一。戦争では部下が射殺されるのを目の当たりにした。戦後、仲間が亡くなった場所に通い遺骨を探し始める。探し続けて1年。なぜ自分だけが生き残ったのか、無数の遺骨を前に徳元は立ち尽くした。米国は遺骨の眠る土地を軍用地とし、立ち入りを禁じた。徳元はその悲しみを歌にした。
戦後、広島には原爆の人体への影響を調べるため米国から研究者らが訪れるようになっていた。被爆者の傷をフィルムに収めるなど検査を強いる一方、治療はしなかった。原爆のヤケドで入院していた吉川清は、米国の記者からの取材を受ける。当初は拒否したが、「日本はまだアメリカの占領下」「泣いて従わねばならん時代」と促され受諾。その取材について、後に書かれた日記には「耐え難いほどの屈辱と憤り」などと綴られている。写真は米国の写真誌に掲載されたが、原爆の恐怖や吉川の心情などについては何も書かれなかった。
被爆からの復興が加速していた1949年。被爆者は「汚い」「原爆症はうつる」などと蔑視されるようになった。被爆者の吉川清は症状が改善しないまま退院するも職につけず、原爆の熱で溶けた瓦などを進駐軍の兵士らに売る店を始める。その際、自らの体の傷を見せ原爆の恐ろしさを伝えようとした。「自分を売り物にしている」と非難されたことも。
サンフランシスコ平和条約が発効した1952年、それまでGHQにより制限されていた慰霊行事が本格的に再開された。特攻で夫を失った伍井園子は熱心に靖国神社を参拝。55年、夫の上官だったという老人と会う。その際、「小さいお子様がいてなぜ特攻に行ったのでしょう」と告げられ、伍井は夫の無念や悲しみは理解されていないのではと思うようになる。このころは特攻隊を題材にした映画や漫画が人気を得ていて、その世相に不安を感じていた。
東京大空襲で4人の子を失った勝田万吉。子どもたちの遺骨は戦後も見つからず、空襲犠牲者約10万人の遺骨が眠る納骨室に通い続けた。80歳を迎えるころ、病に倒れ入退院を繰り返すようになる。その病床で、子供たちのことを「我家の悲しみの想出」として綴り始めた。次第に、自分の子供が亡くなったのは自分の罪と感じるようになる。
沖縄戦で職場の部下を失った徳元八一。戦後、子供たちの支援を日本政府に訴えた。沖縄が本土に復帰する直前、87歳で亡くなった。当時の日記には日本への不満として「米に追従 腰弱きこと」「沖縄の天地は不安の連続」などと綴っている。広島で被爆した吉川清は被爆者の組織づくりに奔走。晩年は不自由な体となりながらも、原爆への抗議活動を続けた。戦時中にフィリピンに移住していた新美彰は、亡くなるまで亡き夫と娘の慰霊のためフィリピンに通い続けた。戦争に加担したことに罪を感じていて、当時の日記には「戦争で残ったものは何?」などと綴っている。戦時中から日記を書き続けた金原まさ子。その日記は娘に託され、今も保管され続けている。
住所: 広島県広島市中区中島町1-2
URL: http://www.pcf.city.hiroshima.jp/

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年10月20日放送 1:43 - 2:43 TBS
ドキュメンタリー「解放区」音楽で世界を調和する 〜左手のフルート奏者 畠中秀幸〜
8月、畠中さんは15年ぶりに広島の実家を訪れた。祖父は幼い父を連れて爆心地に親戚を探しに行き、被爆した。原爆ドームから300mの場所にある被爆したシダレヤナギの下では、毎年8月6日にアーティストらによる平和を祈る活動が行われている。畠中さんも演奏を披露した。

2025年10月19日放送 7:30 - 8:55 フジテレビ
日曜報道 THE PRIME(ニュース)
「日本を守らない」という米国の本音について。トッド氏は「核の怖さは分かっているが、どの国を見てもリスクはとらない。つまり他の国をわざわざ守るのか。自分を守ることですら大変。それでも人々が核の傘を信じていることに関して驚いている。今、アメリカの力は減少している。だからこそアメリカ第一主義が出てきている」などと述べた。佐藤氏は「同盟イコール自動参戦ではない。日米[…続きを読む]

2025年10月15日放送 1:25 - 2:10 NHK総合
NHK地域局発生と死 夢と幻 切明千枝子の95年
2024年11月16日、切明千枝子さんは95歳の誕生日を祝ってもらっていた。買い物や食事の準備も1人で行う。食後には甲状腺と高血圧の薬を服用するという。懇談会の出席依頼のファクスや電話が来た。切明さんのスケジュールはたくさんの予定で埋まっている。元日本被団協代表理事の清水さんは、切明さんは被爆だけでなく広島が軍都であったことも証言する稀有な存在だと語る。[…続きを読む]

2025年9月1日放送 16:05 - 17:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーンNEWS日替わりプレート
戦後80年、日本とアメリカの戦争の歴史を踏まえたうえで、これからの未来に向けて平和の大切さを訴えようとする取り組みについて伝える。アメリカ・ハワイの真珠湾にある戦艦ミズーリは退役して記念館として活用されている。戦艦ミズーリは沖縄戦で旧日本軍の特攻機による攻撃を受けたことや、1945年9月2日に船上で降伏文書への調印式が行われたことで知られている。ハワイ・真珠[…続きを読む]

2025年8月6日放送 16:48 - 19:00 テレビ朝日
スーパーJチャンネル(ニュース)
80回目の原爆の日を迎えた広島。惨劇をどう後世に伝えるか。94歳になった被爆者の男性は、今も試行錯誤を続けている。過去最多120の国と地域が参列した広島の平和記念式典。ロシア、中国や欠席する一方、パレスチナや台湾などが初めて参列。約5万5000人が犠牲者を悼んだ。94歳の被爆者・森下弘さん。当時14歳だった森下さんは、爆心地から約1.5キロの場所で被爆。部屋[…続きを読む]

© 2009-2025 WireAction, Inc. All Rights Reserved.