「武田二十四将図」には武田信玄を支えた24人の重臣が描かれていて、うち3人が真田一族だった。1582年3月11日、武田家が滅亡したが、残された書状から真田昌幸はすでに武田を見限り、北条につきたいと打診していた。北条に従属してから翌月には織田家へ鞍替えするも、本能寺の変が勃発。北条と徳川の争乱が起きると、真田家は徳川へ帰順する。昌幸は褒美として徳川から新たな領地も得ようとしていたという。昌幸は唐沢玄蕃ら多数の忍者を召し抱え、他国の情報を収集していた。1582年、真田軍と北条軍による戦が勃発。昌幸は忍者を使役した奇襲作戦を講じた。6倍の軍勢を相手に勝利し、北条領の城を獲得した。