百済が滅亡した当時、古代日本は奈良・飛鳥に都を置き、大化の改新が行われていた。また、友好関係の証として、百済王の息子を受け入れていた。百済が滅亡しても、復興を目指す一派がいて、百済王の息子を王として擁立しようとしていた上、日本に援軍を要請した。古代日本は国を挙げて唐・新羅の連合軍に挑むことに。岡山・倉敷市に二万という地域があるが、地名は兵士を募ったところ、2万人も集まったという逸話に由来する。加えて、全国でも最大級の石室があり、有力な豪族がいたことを示している。数万に膨れ上がった軍勢を朝鮮半島で発展した平底船に乗せ、渡海することに。まず、唐・新羅連合軍に勝利を収めていた鬼室福信のもとに百済王の皇子、扶余豊璋を送り届けた。
住所: 福岡県朝倉市山田166