東京都新宿区で開かれた被爆者たちの日常を集めた写真展を取材。それぞれの説明書きには「爆心地から7.0km 救護により被爆」など当時の状況が記されている。写し出されているのは優しく微笑む被爆者たちの表情。長崎県出身の田中真衣は都内で会社員として働く傍ら、10年以上に渡って撮影を続けている。きっかけは上京した際に原爆に対する意識の差があると感じたこと。被爆県で育った者として“何か伝えていかなきゃ”と思い、趣味だったカメラで都内の被爆者団体の活動を撮影。証言活動や親睦旅行などに同行する中で、一人一人が生きる今の姿を写し出し、原爆について考えるきっかけにしてほしいと思うようになった。
田中真衣が特に印象に残っているという男性は広島市内で胎内被曝。しかし、自分が被爆者だと知ったのは41歳のとき。母親は男性を産む3ヶ月前に被爆していたと聞かされた。母親は男性を産んだ直後に亡くなっていて、母親として育ててくれた人は実はおばだった。男性は「とにかく母親に会いたい」などと話した。それぞれの笑顔の裏にどんな80年があったのかを想像してほしいというのが田中が写真に込めた思い。田中が撮影を続けてきた被爆者団体は高齢化を理由に5年前に休止し、中には亡くなった人もいる。写真展にはその団体の1人で被写体にもなった被爆者も訪れていた。「関心がある人が1人でも2人でも増えたらいい」などと話した。田中は被爆者がずっと抱えてきた葛藤や苦しみに想像をめぐらせてほしいなどと語った。
田中真衣が特に印象に残っているという男性は広島市内で胎内被曝。しかし、自分が被爆者だと知ったのは41歳のとき。母親は男性を産む3ヶ月前に被爆していたと聞かされた。母親は男性を産んだ直後に亡くなっていて、母親として育ててくれた人は実はおばだった。男性は「とにかく母親に会いたい」などと話した。それぞれの笑顔の裏にどんな80年があったのかを想像してほしいというのが田中が写真に込めた思い。田中が撮影を続けてきた被爆者団体は高齢化を理由に5年前に休止し、中には亡くなった人もいる。写真展にはその団体の1人で被写体にもなった被爆者も訪れていた。「関心がある人が1人でも2人でも増えたらいい」などと話した。田中は被爆者がずっと抱えてきた葛藤や苦しみに想像をめぐらせてほしいなどと語った。
