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「日中戦争」 のテレビ露出情報

北九州市小倉南区にある陸上自衛隊の曽根訓練場。普段は立入禁止だが特別に撮影が許可された。中に入ると見えてくるのは東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡。日中戦争が始まった昭和12年に建設された。7棟の建物やガスの排気筒が今も残されている。戦後は陸上自衛隊の市街地戦を想定した訓練に使われていた。曽根製造所について調べている西南学院大学の伊藤教授。「戦争中の日本軍の兵器工場で建物がこれほどの規模で残っている例は他にない。窓が大きくて通気・換気が意識されていたのが分かる」と指摘。この工場では皮膚をただれさせるイペリットや窒息性のあるホスゲンなどの毒ガスを防弾に詰める作業が行われていた。終戦までの8年間で製造された毒ガス弾の数は約150万発とも言われている。中国との戦いで使用された。工場では地元民を中心に1000人以上が働いていた。残虐な毒ガス兵器は製造に関わった人達の体をも蝕んだ。32年前に放送されたNHKの番組。毒ガス弾の製造については守秘義務があったという。畠山治郎さんは工場が開設された昭和12年から終戦まで毒ガスを砲弾に詰める作業をしていた。畠山さんの体には毒ガスの後遺症が残り、戦後は慢性的な気管支炎に苦しんだ。畠山さんが働いていた建物ではガス漏れ事故が頻繁に起こっていたという。工場の建設から86年、倒壊の恐れがあるとして管理する陸上自衛隊小倉駐屯地は上級部隊に解体を要求している。しかし、曽根製造所を調査している伊藤教授は保存を訴えている。「平和を守っていくためには戦争の時代はどういうものだったかを考える材料が必要。もう直接戦争を体験した世代の方は残念ながら多くは亡くなりつつある。戦争遺跡の価値というのはその部分を多少なりとも補う大変社会的に重要な意義があると思う」と話した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年6月5日放送 15:49 - 18:50 TBS
Nスタ(ニュース)
重慶爆撃から80年。きょう追悼式典が行われた。日中戦争のさなか、当時、国民党政府の首都を置く。日本は圧力をかけるため1938年〜1944年重慶に爆撃を繰り返す。空爆は200回以上、1万人以上が犠牲となる。1941年6月5日の爆撃では数千人が死亡したといわれている。当時を知る男性は「教訓を生かし、将来同じことが起こらない様にしてほしい」などと語っている。86歳[…続きを読む]

2024年5月7日放送 13:05 - 13:55 NHK総合
列島ニュース列島ニュースアップ
山口県は全国でも有数の日本酒の産地。田布施町の県立田布施農高校の校舎裏には酒造蔵部があった。酒造りを学ぶため部員たちが年間300リットルほどを生産している。この日は原料の米を洗う洗米に取り組んだ。「純米吟醸 滄桑」は試験醸造の免許のため、一般への販売は禁止されている。旧熊毛郡は熊毛杜氏と呼ばれる多くの杜氏を排出した酒造りの中心地だった。昭和10年の新聞記事に[…続きを読む]

2024年5月6日放送 19:30 - 20:55 NHK総合
ファミリーヒストリーファミリーヒストリー 高嶋政宏
政宏の父の高島忠夫は神戸市出身。高嶋家の戸籍で辿れる最も古い先祖は御影で暮らしていた。高祖父の茂十郎は5か月間だけ町議会議員を勤めていた。曽祖父の茂一は土地を受け継ぎ、貸家を持ち家賃収入もあった。三男として祖父信夫が誕生。信夫は琵琶に熱中した。信夫の兄の正男の子孫が京都で暮らしていた。信夫の長男として忠生は昭和5年に誕生。

2024年4月28日放送 13:05 - 13:35 NHK総合
首都圏いちオシ!(首都圏いちオシ!)
ハチは大正12年、秋田県に生まれた。飼い主は上野英三郎博士で出張で渋谷駅を使うたび、ハチは送り迎えをしていた。博士の家は駅まで歩いて5分のところでこの辺りの道を通っていた。そんな中、博士は突然亡くなったがハチは駅に通い続けた。今回集まったのは渋谷生まれ・渋谷育ちでハチ公の銅像を守ってきた星野さんと大西さん。ハチの故郷・秋田・大館からは街の観光に携わっている工[…続きを読む]

2024年3月10日放送 12:54 - 14:00 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
大分・臼杵市で建設業を行う大崎さんのお宝は「零戦のプロペラ・エンジン・軸・タイヤ」。2年前に知人から押し付けられたものだという。
零式艦上戦闘機の開発が始まったのは日中戦争が勃発した昭和12年。海軍航空本部は三菱重工などに試作機の製作を発注。堀越二郎擁する三菱重工は不可能とも言える新型戦闘機のの開発に挑み、昭和15年7月に零式一号艦上戦闘機が誕生。当初圧倒[…続きを読む]

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