かつて文部科学大臣を歴任した赤松良子さんは生前は女性の地位向上に力を注ぎ、1985年当時男女雇用機会均等法の成立に尽力していたが今年94歳で亡くなった。赤松良子さんは昭和4年に大阪で産まれ、女学校時代は働く女性へ憧れをつのらせつつも女性に参政権が無いことに疑問をいだいていた。東京大学を卒業後は当時の労働省に入省し、女性という理由だけで夫人少年局に配属された。高度経済成長期になると女性の社会進出は進み、赤松良子さんは女性は結婚すると働かなるという社会に怒り、密かにペンネームで論文を投稿し、子育てをしながら女性の地位向上を目指した。1979年に国連で女子差別が撤廃された事で、日本は男女の雇用を平等にする法律を作ることを迫られた。当時労働省の夫人少年局長だった赤松良子さんは法案作りに取り掛かり、経済界から反発をうけて法案では定年や解雇等では差別が無くされたものの採用や昇進については企業の努力義務とされ1985年に男女雇用機会均等法成立した。赤松良子さんは当時男女雇用機会均等法は後に大きく育って世の中の役に立つ法律だと自分を慰めていたと話す。その後は駐日ウルグアイ大使を務めるなど国際社会で活躍し平成20年には日本ユニセフ協会の会長に就任した。男女雇用機会均等法は改正を重ね、採用や昇進等の差別は禁止された。