吉永小百合さんは「国民的女優」「日本の宝」「最後のスター」と呼ばれてきた。一方、人知れず抱えていた苦悩があった。敗戦が色濃くなっていた1945年3月13日に小百合さんは東京で生まれた。程なく父親が事業に失敗し、借金取りが押しかける日々。貧困の中の小百合さんを救ったのは学芸会だった。主役として喝采をあびた小百合さんは、卒業文集に「私は将来、映画俳ゆうになりたいと思う。」と綴っている。少しでも家計の足しになればと始めた芸能活動。14歳で映画デビューを果たした。清楚で可憐な姿は映画会社の目にとまり、15歳で専属契約を結ぶと、瞬く間にスターへの階段をのぼっていく。人気を不動のものにしたのは「キューポラのある街」。鋳物工場が建ち並ぶ川口市を舞台に、職人の娘として貧しくも健気に生きる主人公を演じた小百合さん。高度経済成長期の若者たちの共感を呼び、社会現象になっていく。この頃、小百合さんは年間10本以上という驚異的なペースで映画に出演。しかし、周りの評価とは裏腹に募り続ける焦り、そして苦しみ。当時の日記には「魂の抜けた人形みたいな私」との言葉が綴られていた。1973年、小百合さんは28歳での電撃結婚。お相手は15歳年上のテレビディレクター・岡田太郎さん。世間の驚きと祝福の中、行われた披露宴。しかしそこに両親の姿はなかった。映画スターとして小百合さんを育ててきた両親は、結婚に反対だった。今回、初めて公開される写真がある。2年前、金婚式を迎えた2人が、ハワイを旅したプライベート写真。そこには波乱の日々を乗り越えた穏やかな夫婦の姿があった。ハワイ旅行からほどなく、太郎さんにがんが発覚。去年9月、地方ロケからかけつけた小百合さんに看取られながら息を引き取った。
吉永小百合さんは、小百合という名前から百の小さな出合いを大切にしてきた。30代で俳優人生を変える大きな出合いがあった。高倉健さんと初めて共演した映画「動乱」。515事件から226事件までの激動の昭和を舞台に、首謀者となった青年将校と妻の愛と生き様を描いた作品。撮影のさなか、小百合さんは驚くべき光景を目の当たりにする。“軍人の役”で暖をとってはいけないというようなストイックさがあったという。自分で出演する作品を決めつつ、事務仕事もこなすようになった小百合さん。この頃、樹木希林と交流を深めていく。2人の出会いはテレビのホームドラマだった。2人を近づけたのは、テレビドラマとしてシリーズ化され後に映画となった「夢千代日記」。原爆の体内被爆による病に苦しみながらも、ひたむきに生きる置屋の女将・夢千代。彼女の生き様と温泉街の人々の人間模様を描いた物語。夢千代が息を引き取るラストシーン、ここでの台詞をめぐり監督と意見が対立。撮影は中断となった。そこには役になり切り役に生きる小百合さんの流儀があった。健康と美容については「週に1回はジムのトレーニングに行ける時は行っている。行かれない場合は自分でスクワットを60回やっている」という。今回、124本目の作品に出演した小百合さん。そこで人生初の決断をすることになる。
吉永小百合さんは、小百合という名前から百の小さな出合いを大切にしてきた。30代で俳優人生を変える大きな出合いがあった。高倉健さんと初めて共演した映画「動乱」。515事件から226事件までの激動の昭和を舞台に、首謀者となった青年将校と妻の愛と生き様を描いた作品。撮影のさなか、小百合さんは驚くべき光景を目の当たりにする。“軍人の役”で暖をとってはいけないというようなストイックさがあったという。自分で出演する作品を決めつつ、事務仕事もこなすようになった小百合さん。この頃、樹木希林と交流を深めていく。2人の出会いはテレビのホームドラマだった。2人を近づけたのは、テレビドラマとしてシリーズ化され後に映画となった「夢千代日記」。原爆の体内被爆による病に苦しみながらも、ひたむきに生きる置屋の女将・夢千代。彼女の生き様と温泉街の人々の人間模様を描いた物語。夢千代が息を引き取るラストシーン、ここでの台詞をめぐり監督と意見が対立。撮影は中断となった。そこには役になり切り役に生きる小百合さんの流儀があった。健康と美容については「週に1回はジムのトレーニングに行ける時は行っている。行かれない場合は自分でスクワットを60回やっている」という。今回、124本目の作品に出演した小百合さん。そこで人生初の決断をすることになる。
