美子皇后(昭憲皇太后)は五摂家の1つ、一条家の出身で、学習意欲旺盛だったという。18歳の時、のちの明治天皇の妃に選ばれた。数カ月後、徳川幕府が滅び、天皇家は京都から東京へと移ることになった。明治天皇は和装から軍服へと改めたが、美子皇后の洋装化が実現したのは14年遅れ、明治19年のことだった。伊藤博文は西洋化推進派で、「政治的な場で女性が和装をしていては人形、置物にしか見られない」と発言。だが、明治天皇は反対で、伊藤の拝謁を避けるまでになった。膠着状態が続くなか、伊藤、梅子夫人と頻繁に面会した美子皇后は洋装化を受け入れる意思を示した。宮中の女官たちも洋装に転換し、明治天皇も受諾。明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布される。その式典に皇后、皇族女性たちはドレス姿で臨んだ。