いとうせいこうは東日本大震災の翌年から何度も被災地に足を運んでいる。岩手・大船渡市の綾里地区には明治、昭和、平成と津波が襲来した。明治三陸沖地震は最大震度3にも関わらず津波が起き、死者・行方不明者は2万人にのぼったという。実業家だった山奈宗真は人的被害、家屋や漁船の被害を調査したほか、流出を免れた古文書を模写した。三陸海岸には津波が幾度も押し寄せたと後世に伝えることとなった。また、各村で人々が要望することをヒアリングしていて、山奈は復興も見据えていた。だが、国、県は山名の報告書を重視することはなかった。1933年、昭和三陸地震が起き、津波も襲来。99歳の熊谷正吾氏は7歳の時に被災した。明治の津波で家族8人を失った祖父からは「津波の前に轟音がする」と言い聞かせられていたという。昭和の津波の後、集落では高台への集団移転が協議された。移転派だった熊谷氏の父親が説得してまわったといい、東日本大震災の際に集落では1人の死者も出なかった。