1960年代、ホンダの創業者・本田宗一郎はまだ1台も車を売ったことがないのにF-1に参戦すると発表した。3年後、宗一郎と若き技術者たちはゼロからマシンを作り勝利。会社はこれをきっかけに大企業への道を歩み続けた。1981年、1人の24歳の浅木泰昭がF-1に挑もうとしていた。当時の開発はほとんど20代。F-1で勝つためならなんでも言い合えた。1988年、ホンダは最強のエンジンを作り上げ16戦15勝となった。しかしホンダはバブル崩壊の影響でF-1から撤退。浅木は軽自動車事業の立て直しを命じられた。口癖は「他社のまねは決してするな」。生み出したのは軽は狭いという常識を覆した車。販売台数は日本一を記録した。2013年、F-1は従来のガソリンからハイブリッドに変更。環境に配慮したパワーユニット。エンジンに2つの電気モーターが組み合わされている。ホンダも技術を磨くためF-1への復帰を決断した。しかし2年遅れての参戦、レースでは馬力が足りず直線で追い抜かれ、ドライバーからは格下のマシンだと罵られた。この状況を打破せよとF-1チームにエースたちが招集された。エンジン設計のスペシャリスト・角田哲史はエンジンの設計を1から見直した。田岸龍太郎は若手でどうすれば馬力があがるか確かめる役割、浅木の下で軽自動車を開発してきた。しかしなかなか実を結ばず批判が殺到。上層部は浅木を呼ぶこと決めた。浅木は定年まで半年、一度断ったが、このままでは若手がダメになると依頼を受けた。世代を超えた戦いが始まった。