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「東京国立博物館」 のテレビ露出情報

広島・広島市、かずもとや呉服店。社長の加藤和行さん(78)。かずもとや呉服店は江戸時代からのれんを受け継ぐ老舗。6人きょうだいの末っ子だった加藤さんは家業を継ぐつもりはなかったが大学2年の時にヨーロッパを旅して古い建築や美術館を見てまわるうちに日本の文化も素晴らしいものだということに気づき着物を守るために店を継ぐことを決意。今では着物が好きで厳選した商品を仕入れる。佐賀錦の帯は24金の純金箔を使った糸で織られている。この帯の値段は980万円。40年程前、謡曲の師匠にすすめられ手に入れた骨董品。師匠に「近所の骨董屋に素晴しい茶碗が入ったから見てきたら?」と言われた。そこで店を訪ね、その茶碗を見たが、どこがいいのかさっぱり分からなかった。しかし師匠が言うんだから間違いないと思い70万円で購入。度々その店に通うようになった。目が肥え、最初の頃には分からなかった良さが分かるようになり、とんでもない名品ではないかと思うようになった。鑑定を依頼するのは「御本立鶴茶碗」。三代家光公が自分で絵を描いたという。内箱が有栖川宮織仁親王、外箱が松平不昧公が箱書き。九条家伝来の品だという。本物とは見比べたことはないという。室町時代に武家社会を中心に広まった茶の湯。茶会といえば公家や大名が自慢の茶器を披露する美術品観賞の場。天目など豪華な茶碗が珍重された。千利休がわび茶を大成すると一変。新たに注目されたのは素朴な高麗茶碗。15世紀後半から16世紀前半にかけて朝鮮半島で焼かれた日用雑器だったが作為のない枯淡な趣が茶人に愛用された。井戸や三島など多彩な器が日本にもたらされたが、大名や茶人たちは既存のものに飽き足らず、自分好みの茶碗を朝鮮の窯に注文するようになった。その1つが御本。御本とはお手本のことで日本から形や図柄、釉薬などを詳しく記した文書を送り見本として作られた茶碗。製作したのは宗義成。1939年釜山の倭館に開いた窯で作陶を開始。絵御本は高麗茶碗にはなかった松竹梅や山水がほどこされ、風雅な趣は京焼の影響が感じられる。玄悦は津島から招聘した船橋玄悦のもとで作られた茶碗。大胆に削りとられたヘラあとや渦に彫り込まれたこうだいを特徴とする。御本を代表するのが立鶴。下絵を描いたのは徳川家光。小堀遠州が見本を作成したと伝わる。松平治郷が愛用、道具の目録にはその価値300両と記される。1718年朝鮮王朝から提供される陶土の減少により窯が閉鎖。江戸時代後期には新御本と呼ばれる茶碗が登場したがこれも短期間に姿を消した。依頼品は本物と比べつくりが異なるようだ。悪質な偽物か大名品か。
住所: 東京都台東区上野公園13-9
URL: http://www.tnm.jp/

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年4月5日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京
新美の巨人たち新美の巨人たち
戦後、ゾウを見たことのない東京の子ども達がインドに送った1500通の手紙、上野動物園でゾウに会いたいと送った。1949年にインドから海をわたり、一頭のゾウがやってきた。インド首相の娘の名前がつけられ東京の芝浦港から上野公園まで大行進した。そのゾウが見たいと沢山の子ども達が上野動物園に殺到した。百子図はゾウの周囲に子ども達の姿が描かれたダイナミックな画風。戦後[…続きを読む]

2025年4月5日放送 7:30 - 8:00 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(ニュース)
東京国立博物館(東京・台東区)の桜を紹介。元々は寛永寺の境内だった。現在、「博物館でお花見を」と題した企画展が行われている。桜の見ごろは今月中旬まで。桜をモチーフにし作品の公開期間は作品ごとに異なるためホームページで確認を。

2025年4月2日放送 5:25 - 8:14 フジテレビ
めざましテレビエンタみたもん勝ち
イタリアを代表するファッションブランド・ヴェレンティノのイベントが行われ、本田翼さん、南沙良さん、アイナ・ジ・エンドさん、あのさんらが出席した。インタビューで本田翼さんに最近お気に入りのファッションを聞くと「乾燥機にかけられる長袖」などと回答し、あのさんとのお花見エピソードを披露した。

2025年4月2日放送 4:55 - 5:25 フジテレビ
めざましテレビ全部見せENTERTAINMENT
バレンティノのイベントが行われ、本田翼やアイナ・ジ・エンドなど多くの芸能人が出席。本田翼はこの春チャレンジしたいファッションを聞かれると、タイトなシルエットの服を着てみたいので体づくりを頑張るという。最新の本田ハウス事情は、こたつが来て抜け出せないという。友だちづくりの秘訣を聞くと「運」などと話した。

2025年3月30日放送 12:54 - 14:00 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
山本梅逸は地元絵師の下で修業に励む一方、豪商・神谷天遊の庇護を受け中国の古画を模写し腕を磨いた。天遊が没すると日本各地を歴訪。頼山陽や谷文晁と親交を深め研鑽を積み煎茶や俳諧にも親しんだ。「文豹図」で藩主献上の栄誉を賜った。50歳の頃、京に移住。円山・四条派の画風に一工夫加えて独自のものに変えていった。優れた描写力は山水画においても遺憾なく発揮された。

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