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「東日本大震災」 のテレビ露出情報

大河ドラマや映画「釣りバカ日誌」で知られる俳優の西田敏行は今年10月に亡くなった。大ヒットとなった「もしもピアノが弾けたなら」。歌手としても活躍し、紅白歌合戦にも出場した。東京を拠点にしながらも、故郷の福島県に思いを寄せ続けた。東日本大震災の被災地で積極的に復興支援に取り組んだ。“世界のオザワ”として知られる指揮者の小澤征爾は今年2月に亡くなった。指揮棒を持たず、全身でオーケストラを導く姿は多くの聴衆を魅了した。東洋人には西洋のクラシック音楽は分からない。そんな偏見が横行していた時代に小澤征爾は単身ヨーロッパへ渡り、果敢に挑戦した。世界で活躍する一方、日本のクラシック界を気にかけ、若者たちの指導や普及活動に力を入れた。
映画やテレビドラマで活躍した西田敏行。コミカルからシリアスまで幅広い役柄を演じた。昭和22年、福島・郡山市生まれ。5歳の時、おばの家に養子に出される。小学生の頃はクラスの人気者。豊かな自然の中ですくすくと育った。週末になると、父が映画に連れて行ってくれたという。俳優を目指そうと決意を固めた西田敏行は東京の高校へ進学。しかし、クラスメイトに訛りを笑われ、学校から足が遠のいてしまう。ホームシックになった西田敏行が向かったのは中学の修学旅行で訪れた上野動物園。そこでゴリラのブルブルと出会い、元気をもらった。その後、大学に進むが、講義を受けたのはたった1日だった。演劇学校などで演技を学び始め、それに専念することにした。昭和45年、劇団青年座に入団。脇役として出演した際、「面白い」と評価された。上手い俳優ではなく、面白い俳優になろうと心に決めた。入団の翌年、写楽考で主演に抜擢される。舞台を見ていたNHKのプロデューサーの目に留まり、連続テレビ小説「北の家族」にレギュラー出演することになる。このテレビ出演はのちに妻となる女性が結婚前、西田敏行を父に紹介する際に役立ったという。代表作となったのは昭和55年から主演したドラマ「池中玄太80キロ」。このドラマの挿入歌として生まれたのが「もしもピアノが弾けたなら」。大ヒットし、紅白歌合戦にも出場した。
また、映画でも「植村直己物語」などに相次いで主演する。昭和63年には映画「釣りバカ日誌」シリーズがスタート。西田敏行と三國連太郎の絶妙なかけ合いが人気を集めた。さらに大河ドラマでも活躍。大河ドラマへの出演は12作品にのぼり、様々な歴史上の人物を演じた。東京を拠点に活動していたが、時間を見つけては福島・郡山市に帰り、少年時代の仲間と交流した。それは生涯に渡って続いたという。平成23年3月に発生した東日本大震災。西田敏行の故郷・福島県は地震と津波に加えて、原子力発電所の事故にも見舞われた。約3週間後に被災地を訪れた西田敏行は言葉を失う。忙しいスケジュールの合間を縫い、福島県に足を運び続けた。震災の半年後に行われた復興支援ライブでは新曲「あの街に生まれて」を披露した。70歳を超えても精力的に活動し、俳優として常に挑戦を続けてきた。
指揮者の小澤征爾は世界の名だたるオーケストラを指揮し、クラシックの本場ヨーロッパでも高く評価された。昭和10年、旧満州(現在の中国東北部)生まれ。歯科医師だった父のもと、三男として育つ。5歳で日本に帰国。小学生の頃、ピアノを始め、ピアニストを夢見ていた。しかし、中学でラグビーに熱中し、指を骨折してしまう。教育者として名高い齋藤秀雄から指揮を学ぶため、桐朋学園の音楽科に進学。短大に進学した小澤征爾はアメリカのオーケストラの来日公演を聞いて衝撃を受けたという。23歳の時、知人のツテで資金を集め、貨物船でフランスへ出発。半年後にはブザンソン国際指揮者コンクールで優勝する。しかし、仕事は増えず、弱気になっていた時に作家の井上靖と出会う。音楽は翻訳が必要な小説とは違うと言われた。昭和35年、名指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが行うコンクールに合格し、弟子入り。翌年にはアメリカの指揮者のレナード・バーンスタインに認められ、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任。この頃、東洋人の音楽家に対する偏見と戦っていた。その後は、ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどを指揮し、評価を高めていく。昭和48年にはアメリカのボストン交響楽団に招かれ、30年近く音楽監督を務めた。
世界で活躍する一方、日本のクラシック界の発展にも尽力した小澤征爾。昭和59年、齋藤秀雄の教え子を中心にオーケストラを結成する。平成4年からは毎年夏に長野・松本市で音楽フェスティバルを開催。著名な音楽家が参加する国際的な音楽祭に育て上げた。平成12年には若い音楽家を育成するプロジェクト「小澤征爾音楽塾」を実現させる。若者から刺激を受けた小澤征爾は60代後半でウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。本格的にオペラを手がけた。平成28年、サイトウ・キネン・オーケストラのオペラがグラミー賞を受賞した。晩年は病と闘いながら指揮を続け、若者への指導に力を注いだ。
長年、映画やテレビで活躍した西田敏行は故郷で育んだ夢を最後まで追い求めた76年の生涯だった。アジアの音楽家が世界で活躍する道を開いた小澤征爾は音楽と向き合い、若い世代にメッセージを送り続けた88年の生涯だった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年1月5日放送 15:55 - 16:55 日本テレビ
秘密のケンミンSHOW 極!ディスカバリー傑作選
地元の方のお宅へ行き、夕食会を見学させてもらうと、わかめをしゃぶしゃぶして食べていた。またウジエスーパーではわかコーナーがあった。2月~3月はわかめの収穫期で無加工の生わかめを販売している。続いて気仙沼市のお宅ではめかぶを調理していた。

2025年1月3日放送 23:19 - 23:25 日本テレビ
My Turning Point(My Turning Point)
震災で大きな被害を受けた石川県輪島市。これを受けて、名古屋工業大学大学院の北川啓介教授は気球のように内側を膨らませ、内側に断熱材を吹き付ける簡易型のインスタントハウスを無償で200棟を提供した。そんな北川教授のターニングポイントは東日本大震災、その際に避難所の小学生の「仮設住宅ができるまでになぜ半年もかかるの?来週建ててよ」という言葉だったという。現在北川教[…続きを読む]

2025年1月3日放送 6:00 - 13:00 テレビ朝日
ポツンと一軒家和歌山県のポツンと一軒家
スタッフは和歌山県のポツンと一軒家の主、有さんに話を聞いた。昔から動物がすきだった有さんは動物を住む森を守るために長野県にある森林関係の大学へ進学し、新子さんとも大学で出会った。一男一女を授かり長野県の森林組合で働いていたが、その後新子さんの実家がある石巻近くの森林組合に移り、新子さんは実家の保育園を手伝った。近所に炭焼き職人がおり有さんも炭焼きを始めたが、[…続きを読む]

2025年1月2日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
ワタシだけの革命史(ワタシだけの革命史)
70年代は松田優作、90年代は浅野忠信、そして2010年代のアイコンは菅田将暉ではないかと映画評論家・森直人は論ずる。個人的に驚いたのは「そこのみにて光輝く」とし、これ以降、菅田将暉に注目せざるを得ない。彼のスター像の持ち味は完全にクリーン。良くも悪くも芸能界の匂いがしない。個人として支持されている。それが本人が意識していないところが重要。金原由佳はあえてア[…続きを読む]

2025年1月1日放送 13:40 - 14:00 フジテレビ
FNNニュース(ニュース)
被災地能登に静かに鳴り響いた除夜の鐘。能登の人々の暮らしを一変させた1年が終わり雲の切れ間からわずかに朝日。仮設住宅の前では威勢のいいかけ声。珠洲市、輪島市、見附島、重蔵神社の映像。専念寺・畠山義邦住職、灯籠にメッセージを書いた人、地元の幼なじみと訪れた人、初もうでに訪れた人、餅つきに参加した人のコメント。

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