原発導入の道をひらいた日本人。柴田秀利氏の甥・奥田謙造さんに話を聞く。読売新聞の記者だった柴田秀利氏。戦後はGHQの担当記者として日米の政財界に人脈を築いた。吉田茂総理(当時)、田中角栄氏、アイゼンハワー大統領(当時)とも交流があった。第五福竜丸の被ばく事件が明るみに出て反米感情が吹き出した1954年、柴田氏は米国国防省を名乗る人物から「反米世論を抑えるための妙案はないか」と問われ、「毒は毒をもって制する。原爆反対を潰すには原子力の平和利用を大々的にうたいあげ産業革命の明日に希望を与える他はない」とした。原子力の必要性を読売新聞社主・正力松太郎に訴えた。政界進出を狙い、公約に“原子力平和利用”を掲げ、1955年衆院議員船で初当選。正力氏は当選後も原子力を推進する記事を読売新聞に次々と掲載。米国の原子力関連企業の社長らを招待。日比谷公会堂で開かれた原子力平和利用の講演会は大盛況。テレビ中継もされた。CIAが記録していた正力氏に関する機密文書を紹介1956年、正力氏は原子力委員会の初代委員長に就任。原発導入を加速させた。1956年、コールダーホール原発を英国で運転開始。1954年に米国は原子力潜水艦・ノーチラス号の進水式を行ったが、商業用の原発の開発は遅れていた。実績を作りたい正力松太郎氏は英国から最初の商業用原発の購入を決めた。英国に使節団や調査団が派遣され、その中に読売新聞記者・柴田秀利氏の姿もあった。柴田氏の甥の歴史学者・奥田謙造は英国公文書館などで調査。日本が地震で原子炉が損傷しないか訪ねたところ、「すぐに説明することができないと言った」という。1965年、東海発電所(コールダーホール改良型)の運転を開始。1998年まで稼働した。