6時間を超える激闘の末、楠木正成は足利尊氏の率いる軍に追い込まれ、一族もろとも自害した。軍記物語「太平記」を紐解くと、新田義貞が後醍醐天皇とともに比叡山に立てこもり、京都に入った尊氏に楠木が攻撃を仕掛けるという作戦を編み出していたという。京都に侵入できるルートは数多くあり、足利軍にとっては守りにくいことこの上ない。補給路を遮断すれば、足利軍に兵糧攻めを仕掛けることも可能。さらに平野部が少なく、家々が建ち並ぶ場所では兵馬の機動力は大きく削がれる。この作戦が実行されていれば、楠木正成が勝利していた可能性があった。