- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
楠木正成は標高1000mを超える金剛山の中腹に築城していた。幕府軍からすれば軍勢を展開しづらい上、楠木は進軍ルートに沿って複数の山城を構築した。地形を活かし少ない手勢でも大軍を翻弄したという。武具に着目すると、平安時代~鎌倉時代にかけては重装備の大鎧が一般的だった。対照的に楠木正成の鎧は軽くて簡素で、山岳地帯の移動に適していた。使っていた弓は当時としては最新鋭で、世界弓道大会で優勝を収めた友安正人氏が調査に協力してくれた。旧型よりも速く、高威力。30m遠く飛ばすこともできたという。劣勢に立たされた幕府軍は意気阻喪し、戦場で賭博にふけり、風俗に耽溺。戦場から離脱する者もいた。一方、倒幕軍の数は膨れ上がり、1333年5月に鎌倉幕府は滅亡した。
山城に敵軍をおびき寄せ、地形を活かして戦った楠木正成の戦法は室町、戦国時代の武士たちも実行したといい、佐藤二朗は楠木をゲームチェンジャーと評した。他にも楠木は山城に鍛冶場をもうけて武器を生産し、戦場では敵兵に油をかけて放火したり、糞尿を投げつけたりしていた。幼少期にきちんと教養を受けたからこそ、新たな戦法を編み出すなど型破りな発想を持ち合わせていたと考えられる。
- キーワード
- 楠木正成
楠木正成の館跡で発掘調査が行われたところ、中国製の陶磁器が見つかった。また、楠木は建水分神社の本殿を建立するほど財力の持ち主だったという。領内には水越川、千早川が流れ、辿っていくと京都にまで繋がる。往来する人々から支払われる税で財をなしていたという。そして、河川の近くに拠点を置いていた武士たちとも連携し、幕府軍と対峙した。
楠木正成の領内には京都へと繋がる河川が流れ、領地の近くには東高野街道が通っていた。 河合敦氏によると、挙兵前から楠木は都の貴族とつながりを持っていたと考えられるという。鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まるも、人々は不平不満を募らせる。そして、足利尊氏と相まみえることとなった。
6時間を超える激闘の末、楠木正成は足利尊氏の率いる軍に追い込まれ、一族もろとも自害した。軍記物語「太平記」を紐解くと、新田義貞が後醍醐天皇とともに比叡山に立てこもり、京都に入った尊氏に楠木が攻撃を仕掛けるという作戦を編み出していたという。京都に侵入できるルートは数多くあり、足利軍にとっては守りにくいことこの上ない。補給路を遮断すれば、足利軍に兵糧攻めを仕掛けることも可能。さらに平野部が少なく、家々が建ち並ぶ場所では兵馬の機動力は大きく削がれる。この作戦が実行されていれば、楠木正成が勝利していた可能性があった。
楠木正成の死後、京都を舞台に合戦が行われたが、6回中5回は京都を守る側が敗着した。足利尊氏を京都に閉じ込めるという作戦は朝廷に提案されるも、却下されてしまう。最後は型破りな奇策ではなく正々堂々と戦い、死闘の末に楠木正成は自害。河合氏は「正々堂々と戦うことで、楠木正成は歴史に名を残そうと考えたのではないか」と推測する。
「歴史探偵」の次回予告。